三章 ハルとアキ

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『こんなものを残すのは、少々恥ずかしい気もする。けど、知ってもらいたい。ただの自己満足だが、私とハルとのことを。最後にハルと会えて、私は感謝している。それこそ、怨みに怨んだ神様に、私はありがとうと言いたい。私に病気を授けた神様に。  幸せというのは、パンケーキに砂糖をまぶすように地球にばらまかれ、私たちはアリのようにそれを求めるものだと思う。時にはもぎ取らなければならないだろう。  だが、大半の人物は振り分けられる砂糖の量があらかた決まっている。  残念ながら私は得られなかった。この世に生を受けたこと、それすらが幸福なことだと人は言うかも知れない。しかしながら、とても自分のことを幸せだとは思えない。  二十六にして私は余命宣告を受けた。医師は悲しげに眉を八の字にし、余命があと二年であることを告げた。  わからない、わからない、わからない。  どうして、たった二年で死ななければならないのか。  数年前に知った音楽。遅咲きではあったが、まわりからは評価を得た。プロになれるんじゃないかと思いを巡らせていた。  だが、そんな夢は音を立てて崩れた。あと二年で死ぬのだ、たった二年で。  結婚もできないだろう。親に子供の顔を見せることもできない。  私はただ、神様を憎むことしかできなかった。  ウォリックという名のバーで、私は酒に酔っていた。  病気への憤りや悲しみ、恐怖は酒が和らげてくれる。たとえ仮初だとしてもだ。病人に酒は禁物? そんなの知ったことではなかった。  焼酎やウイスキーにふらふらになりながら、私はバーを出た。見上げてみると、星々で夜空はきらめいていた。私も死ねば星になり、ああして輝くのだろうか。  私は数歩進んだところで、その場にしゃがみ込んでしまった。頭はハンマーで叩きつけられているかのように揺れ、喉の奥からは虫が這って出てくるような不快感。  壁に頭をつけ、気を落ち着つけようとした。私の横を通る人たちは、座り込んでいる人物に目もくれなかった。  だがそういうものだろう。誰が酔っ払いに絡みたがるというのか。  しかし、ハルは違った。  深呼吸をして、立ち上がろうとしていると、声をかけられた。 「もし、大丈夫ですか? どうかしましたか?」  私は顔を上げてみた。声をかけたもの好きはいったい誰なのか。  歳は私と同じくらいだろうか。気の優しそうな青年だった。人の痛みがわかりそうな、そんな雰囲気がある。  私が口を開こうとしていると、その青年は「あっ!」と驚きと当惑の声を上げた。 「もしかして、秋里じゃないか……?」  私は疑問符を浮かべた。なぜ名前を知っているのか。私に名札を下げる趣味はない。  なら、知り合いだということだろうか?  そういえば、私もこの青年を見たことがある気がした。いったいどこで──?  私はとりあえず、頷いて秋里だということを伝えた。 「やっぱそうか、こんな酔ってしまって……。なあ、俺の部屋にくるか? ここから近いんだよ。それとも自力で帰れるか?」  私はなんとか口を動かし、頼むよと言った。  この青年は泥棒を働くような輩でもないだろうし、私の事を知っていることもあって安心できた。  青年は私の腕を肩にまわし、歩き出した。 「なんだ、兄ちゃん、酔っぱらいの介護かあ?」と赤い顔をしたサラリーマンが声をかけてきた。このサラリーマンも酔っ払っていた。 「ええ、まあ」と青年は答えた。 「へっ、酒に呑まれたやつなんてえ、捨ててちまえばいいんだよ、みんなそうするぞお、酔っぱらいに絡んで得することなんてないからなぁ」 「なるほど、だからあなたは一人なのか」  サラリーマンは目を細め、意味を考えていたが、やっと気づき怒鳴り声を上げた頃には、私たちは遠くまで歩いていた。  私は薄れゆく意識の中、考えていた。  なんだか、こういった場面をどこかで見たことがある気がする。男が酔っぱらい、親切な人物に介抱され、その親切な人物は話していた輩に皮肉を言うと、立ち去る。  いったい何だろうか? ──ああ、そうか……。チャンドラーの長いお別れか。あの物語も、探偵のフィリップ・マーロウが、酔っぱらっているテリー・レノックスを介抱してやるところから始まる。  私は納得し満足すると、意識を失った。泥のように眠った。
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