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ホームルームが終わり、ぼくはカバンを持つと立ち上がった。
「なんだ、どこか行くのか? 帰らないのか?」と後ろの席にいる涼ちゃんは言った。
ぼくは振り返り、
「うん、ちょっと部活見学に」と答えた。
「そ、そうか。帰りは遅くなるのか?」
「どうだろう。まあちょっとくらいは」
「そう……」
「涼子ちゃんも部活の見学に行くの?」
「いや、私はどうだろ。どうしよかっなあ」涼ちゃんの歯切れが悪かった。
「ぼくはそろそろ行くよ。じゃあ」
「ああ」
背を向けて歩き出すと、後ろから涼ちゃんのため息が聞こえた。小さな幸せが、逃げていく気配がした。
渡り廊下を越え、別棟につき、階段を登っていく。探偵部は三階のあるらしいのだ。
階段を上がったすぐに、探偵部の部室があった。
『探偵部』と書かれたプラスチックのプレートがかけられてた。
その下には張り紙があり、『依頼者の方は三度ノックしてください。それ以外の方は二度』と書かれている。
三回ほど深呼吸すると、ぼくは二回ノックした。ややあって、どうぞと聞こえてきた。
扉を開け中に入る。部室の真ん中には、教室で使われている生徒用の机が四つ集まり、その奥の窓際にはデスクがあった。そこに先輩が座っていて、立ち上がると笑顔でぼくに近づいてきた。
「おお、昨日の黄色い顔の子。よく来てくれたな」
黄色い顔の子という言葉に引っかかりつつ、あなたも日本人なんだから黄色い顔だろうと思いつつも、
「失礼します」と言った。気の利いた言葉が思いつかなかったのだ。
「さあさあ、座ってくれ」
先輩はぼくの肩に手を置きながら、もう片方の手で入ってくれとジェスチャーした。先輩が椅子を引いてくれて、ぼくはそこに座った。
「探偵部は先輩一人なんですか?」とぼくは訊ねた。
先輩はデスクに座ると言った。「そうやねん、俺一人やで」
「じゃあ部長さんなんですか」
「ご名答。いい“論理的思考”やなぁきみぃ」
「……ちゃかしてます?」
「違う違う!」先輩は慌てて言った。「君は素質があるねってことを言いたいんや。誰も煽ってない」
「そ、そうですか」そう言ったものの、あまり信じてはいなかった。いい論理的思考やな、と言った時の顔が、どうもふざけていたように見えたのだ。
「まずは自己紹介しよか」と先輩は言った。「俺の名前は薬師寺(やくじ)ゆうきや。よろしく」先輩はニコッと笑った。
「ぼくは原田響といいます。よろしくお願いします」
「キョウ……」突然、先輩は顔を険しくした。「君はキョウいうんか」
「ええ、そうですけど」
「字はなんて書くの? 響くっていう漢字か」
「そうです。その字です」
「ふうん、そうかぁ」先輩は顎に手を当て、なにか考えている様子だった。
いったいどうしたんだろう。何かまずいことでも言ったかな……。
少しして仮眠から目覚めるように先輩ははっとして、ごめんごめんと謝った。「ちょっと考え事してて」
「そうなんですか」
「それでさ、キョウはどんなジャンルの小説が好きなん? ホームズ読んでるってことは、本格ミステリーが好きなんかなあって思ったんやけどさ」
「はい、本格ミステリーは大好きですよ」
「おお、そうかそうか! それは良かった」先輩は嬉しそうに目を細め頷いた。「なんの小説が一番好きなん?」
「ええ、難しいですねぇ」ぼくは腕を組み唸り声を上げた。
正直に白状すれば、こういう会話ができるのが嬉しかった。身近に趣味が合う人がいなかったから。
「確かにこの質問は難しいわな。でも俺があげるなら、カーの『ユダの窓』かなぁ」
「ああ、ユダの窓!」
「読んだことある?」
「はい。あれも最高の密室トリックですよね!」
「そう、そうやねん! 俺もあのトリックを読んだ時は、よく見つけたなって思ったもん。感心したわ」
「メルヴェール卿のキャラもいいですしね」
「わかってんなキョウ! そうやねん、あのおっさんが愛おしく思えてくんねんな」と先輩はにこにこして言った。「キョウはなんの小説が好き? 難しいかも知れんけど」
「ううん……」
ぼくは腕を組み、考えてみた。
頭の中で色んな名作が過ぎったけど、ある小説が一番初めに浮かんだ。あの衝撃は忘れるかとなどできない。
「ぼくは、『占星術殺人事件』ですかね」
「名作を持ってきたな! 占星術はほんまにええ小説やからな、わかるで」
「あの小説は特別です、ぼくにとっては。占星術を読まなければ、たぶんミステリーにもはまらなかったと思いますし」
「じゃあさ、一番好きは探偵は誰なん?」
「探偵ですか」これまた難問ではあるけど、ぼくの答えは決まっていた。「御手洗潔ですかね」
「やっぱりそうか。占星術殺人事件が好きなんやったら、そうなるやろなぁ」
その時、先輩の異変に気がついた。
先輩は同意するように頷いていたけど、瞳は獰猛な猛獣のように輝いていた。にんまりと笑みも浮かべ、策略が上手くいった詐欺師のようだった。
どうしたんだろうか……。
「そうか、そうか。好きは探偵は御手洗か」
「はい……」
依然として先輩は同じ表情を浮かべ、ぼくは背中に冷たいものを感じていた。知らないうちに、大きな大きな黒い穴には落っこちているような──
いや、それは大袈裟だということは知っている。けれど恐ろしかった。
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