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私の字。
四角い字。
白い封筒の中の、私の手紙。
その缶箱は隆さんの手紙入れで、その一番上にあった、私の手紙。
「真弓さん、私、読んでないでね」
幸江さんが言い訳がましくそう言って開かれた便箋から目を背ける素振りをしたので、
「大丈夫。古い話。もう時効」
そう言って私はその手紙を手渡した。幸江さんに。読みたければ読んでくれればいい。私の残骸。若い頃の私の遺物。若くて生命力に溢れ、自我が強くて我儘一杯だった頃の私。恥ずかしくなんかない。それが私だ。手紙の宛先の隆さんはそこに寝ている。目を覚まさない。もう二度と。
そう。嘘だ。嘘。
嘘が私たちが別れるきっかけを作った。
嘘だけはつかない。嘘だけはやめよう。
若くて生命力溢れる私は、結婚にあたってそのことを結婚相手に誓約させた。
私は嘘が嫌いだ。
それは本当に。
今でも嘘が嫌いだ。
私たちは結婚するのだから、世界で唯一の関係性になるのだから、嘘はいけない。だって嘘なんかつく必要がない。お互いわかり合っているのだから。嘘なんかいらない。嘘は不要だ。私の大っ嫌いな嘘は。
そう思っていた。あの頃の私。若かった私。そう信じていた。信じて疑わなかった。
そして嘘をついたのだ。隆さんが。私に向かって。タブーを破ったのだ。絶対に破ってはいけないタブーを。
嘘。
私は嘘をつかれた。
その時。
だから私はこの手紙を書き、そしてこの家を出た。
はて。
それは。
どんな嘘だったのだろう。
隆さんがついた嘘。
私が結婚を破棄しなければならなかった嘘。
はて?
わからない。
思い出せない。
そんなふうに考えていると、缶箱の中の他の封筒に目が留まった。
佐藤真弓様、と宛名が書いてある。
懐かしい字。
隆さんの字。
取り上げてみると、封がしたままだ。切手が貼ってある。消印がない。宛先は八王子。私の実家だ。
つまりこの手紙は出されなかったのだ。
隆さんが書いて、出さなかった手紙。
私宛の手紙。
別れた後の、私宛の手紙。
あの微笑みが最後じゃなかったんだ、と私は思った。
あの微笑み。隆さんの微笑み。この家の居間の座布団の上の、隆さんの最後の微笑み。あの微笑みを最後に、私たちは会うことがなかった。今日のこの日まで。私たちは会わなかった。連絡を取らなかった。関係性を持たなかった。だからあの微笑みが隆さんの最後だ。私にとって。隆さんとの最後の関係性。隆さんの最後の思い出。
でもこの手紙は、その後に書かれている。
あの後があったんだ。
あの曖昧な微笑みが、隆さんの最後じゃなかったんだ。
今わかった。
そのことがわかった。
呆然とする。
隆さんが残した、私への気持ち。
微笑み以上のもの。
曖昧以上の意志。
「ハサミ持ってくる?」
幸江さんが聞いた。
恐る恐る聞いた。
私は首を振った。
黙って首を振った。
「ハサミはいらない」私は言った。
「持って帰ってもいい?」
幸江さんが私を見た。憐れむような目をしていた。
「兄ちゃんの手紙だに。あんたに書いた手紙だに。真弓さん、あんたの手紙だに」
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