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第二章 家政夫代わりに
結局、と手早く卵を混ぜながら京介は思う。
溶いた卵を、バターを溶かしたフライパンに流し込む。
結局、ここなの家に泊まって、翌朝律儀にご飯なんて作っているあたり、夜中にこっそり出て行ったりしなかったあたり、多かれ少なかれ彼女に好意があるのだろう、と思う。
まあ、確かに好みの顔なのだけれども。どストライクというか。
でも、好意というか、
「ほっとけないしなー」
どこまで本気で言っているのかがわからないところが怖い。
いずれにしても、心中を夢見て生きているなんて人間、一人で放置するのも気が引ける。死ぬために生きるなんて。
「俺って本当、お人好し」
小さい声で愚痴ると、出来上がったスクランブルエッグをお皿に載せた。
本当は、レタスかなにかを添えたがったが、野菜室にあったのはしわの寄ったトマトだけだった。
お人好しというか、ただのバカだ。わざわざ深くかかわったって碌なことないのはわかっているのに。
冷凍庫でかろうじて冷凍保存されていた食パンをトーストし、三角形に切ると、スクランブルエッグの傍に添える。
出来上がった朝食をテーブルにセッティングした。
1LDKの部屋、ここなの寝室をノックする。
「中曽根さーん、朝ご飯できましたけどー?」
返事はない。
「中曽根さん?」
もう一度。
ばたんっ、と中で大きめの音がした。ドアから数歩離れる。
「ここな」
ドアを開けながら、ここなが言った。
「ここなって呼んで、って言ったでしょ?」
昨夜のように可愛い子ぶるわけでもなく、淡々と言う。
乱れた髪が顔にかかっている。怖い。
「すみませ、ん……」
思わず謝る。
「朝?」
「ええっと、朝です」
「何時?」
「七時……」
「はやくねっ!?」
それまで重たそうに細められていた目が、突然くわっと開いた。びくっと、京介は身を引く。
「七時ってあなた、私昨日寝たの三時なんだけど」
「ええ、まあ、知ってますけど……」
何故か、敬語になる。
「なくね? それでなんで七時に起こすの?」
「お仕事とか……」
あるんじゃないかなーとごにょごにょと語尾を濁す。
「仕事? あなた、私が九時五時の仕事についていると思っているの?」
鼻で笑われた。
正直、夜中の二時に明るい茶髪の巻き髪、まつげばっさりどっさり、フリフリのミニスカで歩いている女性が、堅気の職業だとは思っていなかった。
「いや、それは……」
だからといって、素直にそれを言うのも躊躇われ、京介が言葉を濁していると、
「キャバ嬢なんですけど」
屈託なく、ここなが答えた。
「わかる? キャバクラ」
「……ですよねー」
「ですよねーって何」
大きなあくびを一つして、右手で顔にかかった髪をかきあげる。隠れていた顔が現れる。
昨夜のように、ぱっちり二重に、ばしばしまつげではない、すっぴんの顔。
化粧ばっちりの顔も、自分の顔の特性をよくわかっていて可愛かった。自分の顔の利点を強調するような顔。
でも、こっちの顔の方が可愛いのにな、とりあえずより好みなんだけどな、とどうでもいいことを京介は思った。
「それで、朝ご飯?」
「ええっと、はい」
もう一度大きくあくびして、ここなはダイニングテーブルにつく。
「あ、スクランブルエッグにトマト入ってる」
「あー、トマトお嫌いで?」
どうしても下手に出てしまう。
考えてみたら、家主の嫌いなものが冷蔵庫に入っているわけないのだけれども。
「ううん、珍しいなって思っただけ」
いただきます、と両手を合わせてここなはフォークを握った。
「食べるは食べるんだ……」
「人の作ったご飯とか、十年ぶりぐらいだし。お店以外では」
京介の小さなぼやきに、ここなは澄まし顔で答えた。
寝起き自体は悪いわけではないようで、もう先ほどのような眠そうな顔はしていなかった。はきはきとしゃべる。
「む……」
フォークを口にくわえたまま、ここなの動きが止まる。
「あ、あれ? 美味しくない?」
思わずおどおどと尋ねると、
「スクランブルエッグって、こういうのだったっけ? なんかもっとこう、味気ないものだった気がするんだけど」
上目遣いで京介を見る。
「ふわふわで美味しい」
そのまま微笑んだ。
「あー、よかった」
それに安堵する。タイミング良く沸いたお湯で、紅茶をいれる。
「ってか、勝手に台所使ってすみません」
それをここなの前に置き、自分もここなの正面に座った。
「ううんー。寧ろよく材料あったねー」
「うん、寄せ集め」
米もないのかよ、この家、と思ったのは内緒だ。
というか、消費期限ぎりぎりの卵と、トマトと、食パンと、お漬け物しかなかった。お漬け物は何故か、種類豊富だったけれども。
「キョースケ、お料理上手なんだねー」
すっかり昨夜のきゃぴきゃぴしたトーンに戻ったここなが、小首を傾げながら言う。
「以前、料理人の見習いっぽいことしてたんで。あのときは、本当にそっちの道を究める予定だったんだけんだなぁ」
後半は小さい声でぼやきながら、いただききますと自分の分に手をつける。
「ふーん。なんでやめちゃったの?」
京介は少しためらってから、
「料理長の奥さんに惚れられて、ごたごたしたんで」
出来るだけ淡々と答える。
「んー、そりゃぁ、大変だー。キョースケかっこいいもんねー。優しいしねー、モテちゃうかもねー」
さも当たり前のようにかっこいいとか言われて、京介は紅茶を吹きそうになった。
「でも、それキョースケ悪くなくない?」
そんな京介に気づくことなく、ここなは言う。
「たぶらかした、思わせぶりな態度をとった俺が悪いんだって」
さっきのは営業トーク的なもの? 内心で首を捻りながら答える。
「ちょっと人間関係のごたごたに疲れちゃって。人付き合いは好きだけど。あの店、住み込みだったから住むところもなくなっちゃって。それでまあ、気づいたらあんなとこにいたんだけど」
「大変だったね。あ、でも実家に帰るとかはないの? 私としてはなくていいんだけれども」
「さり気に酷いこと言うね。いや、……俺、割と早い時期に両親亡くしてるから。それなりに俗っぽく言うと、天涯孤独の身の上ってやつ?」
少し躊躇いつつ、口にした言葉に、
「あら、一緒ね」
ここなは当たり前のように微笑んだ。
「……あれだね、幼少期に親の、いやまあ親じゃなくてもいいけど。誰かの愛をちゃんと受け取らないと、人格破綻した人間ができあがるんだよね。俺もだけど」
心中したい、なんていうとか。
「そうね、キョースケもちょっと変わってるわよね?」
「改めて言われるとむかつく」
「嘘よ。キョースケ優しいもの」
ここながフォークを置く。
そして、
「だから、心中しましょ」
微笑む。
「しねーよ」
間髪入れずにつっこんだ。油断をするとすぐこれだ。
「むー」
口でむくれたような声をだし、頬を膨らませる。
「だから、これは俺からの提案」
それを無視して、一晩考えたことを告げる。
「ん?」
「ここには置いてもらおう。正直、本当に行く当てないし。仕事もないし」
「うん、全然いていいよー。寝るとこソファーしかないけどー。まあ、一緒に寝ても良いけどー」
「それは遠慮しとく」
「いくじなしー」
「なんだ、その野次」
呆れて笑う。少し、このやりとりが楽しくなっている自分がいる。
「ただ、心中して欲しいという中曽根さんの要望には答えられない」
「中曽根さんじゃなくて、こ・こ・な」
一音ずつ区切って、ここなが訂正する。
「ここな、って呼んでって、言ったでしょう?」
「……とにかく、心中という要望には答えられない。だから、家政夫代わりに置いて欲しい。とりあえず、なんか仕事決まるまで」
「仕事探すって、ヤバい仕事はしないでねー。ヤクの売人とか?」
「しねーよ」
心中はよくて、ヤバい仕事は駄目なのか。ここなの基準はよくわからない。
「とにかく、三食作るし、掃除洗濯もする。料理の腕にはそれなりに自信があるし」
「うん、うちの何もない冷蔵庫でこれだけ美味しいもの作れるなら、もっといいものつくれるよねー? それは楽しみー」
お味噌汁とか、肉じゃがとか、ラザニアとか食べたいなーあとデザートもー、と子どもみたいに思いつくまま、ここなが言う。
「作る作る。だから、それで手を打ってもらえないか?」
ここなは、しばらく考えるように宙を見て、
「ま、とりあえずそれでいいかなー。心中については、今後考えてもらってー。まず、恋をしないとだし」
心中を譲る気はないらしい。
「……まあ、うん、譲歩してもらえるなら今はそれでいいや」
京介も頷く。
「わー、じゃあこれから店屋物じゃなくて、作り立ての美味しいもの食べられるんだー。でも、もうこの時間に起こすのやめてねー。私いま、超眠いー今すぐ寝れるー」
「寝られる、な」
ここなの大あくびに呆れながら訂正する。
「キョースケ、顔はいいのにモテないでしょ? そうやっていちいち、ら抜き言葉とか訂正する人は面倒だなー」
微笑んだまま、ここなが言うから、少し胸を抉られる。
「まあ、モテるわけではないけども……」
ごにょごにょと呟くと、
「でも、私、そういう真面目な部分がある人も好きだなー」
トーストにかじりつきながら、ここなは言った。
「それは……、どうも」
どう返事すればいいか悩み、軽く流す。
「あ、軽く受け流したー」
「流すだろ……」
「まあ、でもモテなくてもキョースケは私と恋仲になる予定だから別にいっかー。寧ろモテちゃったら大変だもんね」
「……勝手に決めるなよ」
京介の言葉に笑みを返し、ごちそうさま、とここなは両手を合わせた。
「えっとね」
ソファーの上に放り出してあった鞄を掴むと、中から財布を出す。財布を開き、しばし中を睨んだあと、
「うーんっと、いいや、これごと預ける」
「ちょ」
無造作に渡された、ピンク色の財布に京介は慌てる。
「仮にも一応、ほぼ初対面の人間に財布丸ごと預けるなよ」
「いいのよ、これから心中する仲だし」
「しないし」
「誰かを家にあげた段階でそれぐらいは覚悟しているし、そのお財布もって逃げちゃうような人は、わざわざ早く起きてご飯作ってくれないもん。寝た時間一緒なのに」
ね、と笑う。
「……まあ、逃げないけど」
「それに、私クレカ嫌いだから持ってないし、キャッシュカードも別のところにあるから、それぐらい持ち逃げされても困らないしー」
あ、でもお財布気に入ってるからなー、逃げる際には中身だけ出してくれると嬉しいかなー、と真剣にずれたことを呟いた。
「うーん、まあ、とりあえず、預かる」
「うん。それでー、適当に必要なもの買ってくださーい。私ねー、カレー食べたい気がするー」
「思いつくままだな」
呆れたように京介は笑う。その顔をみて、ここなも満足そうに笑った
「生活費的なことは、またゆっくり考えましょ? とりあえず、私」
そこでまた一つ、大あくび。
「もう一回寝る。無理……」
瞳がまた、とろんっとする。
「あー、はい。起こしてごめん」
「ううん。ごちそうさまでしたー」
もう一度両手を合わせ、深々と礼をする。
「美味しかったー。お昼も期待ー。でも出来ればお昼は一時ぐらいにしてくださーい。寝まーす」
早口で言うと、そそくさと部屋に戻った。ぱたんと、ドアが閉められる。
その後ろ姿を呆れたように見つめ、京介は少しだけ口元がゆるむのを感じた。
子どもみたいだからか、何故か憎めない。
「カレーか。まあ、冷凍しとけばいいし、大量に作って。ドリアとかにしてもいいし」
呟きながら、立ち上がる。
まずは、食器を片付けて。あ、でも、その前に洗濯物を洗濯機にいれてからの方がいいかな。
洗面所に向かう。真新しい乾燥機能付きの洗濯機。洗剤は一応揃っていた。
ただ、乾燥機の中には以前洗濯した服がそのまま入っていた。だらしないなーと思いながら開けて、
「あ」
すぐ閉めた。
洗濯物には下着という割と強敵がいることを思い出した。
ここなのあの感じからは、気にしなさそうだけど、今日は保留にしておこう。
さくっと決意すると、洗濯はとりやめる。
とりあえず、自分の服だけをたらいを使って手洗いした。
今着ているジャージは、ここなが部屋の奥から出して来たものだ。完全に男物だし、なにより、小柄なここなには合わないサイズ。
この服の持ち主はどうしたのだろう? ここなとはどういう関係だったんだろう? 今は、どうしているんだろう?
余計なことを考えそうになって、あわてて洗濯をする手に力をこめた。
余計なことに首を突っ込んではいけない。ただ、家政夫として仕事に従事しよう。
余計なことをしたら、誰もが無事では終われない。
「む」
お昼のカレーを一口食べたここなは、小さく唸り、スプーンをくわえたまま固まった。
「なにこれ? 何カレー? 何使った?」
ここなの眉をひそめた質問に、慌てて買って来た定番中の定番のカレールーを京介は答えた。
「お口に合わなかった?」
「ってか、なんでー、私が作るのとちーがーうー」
唇を尖らせる。
「おーいーしーいー」
言葉の割に顔が不満そうで、京介は少し呆れて笑った。
「何したの?」
「特に何も」
「嘘だー」
「あー、玉葱の薄い皮を剥がしたのと、玉葱一時間半炒めたのと、水の代わりに野菜から出た水分と野菜ジュース使ったの、ぐらいかなー?」
「玉葱一時間半炒めるとか、暇なの?」
「俺が忙しいと思うか?」
ちょっと胸をはって言った。すぐに空しくなってやめる。
「ただ、玉葱炒めるのは基本だぞ?」
「だって、あれ、涙でるじゃん」
当たり前のように言われて、少し口元がゆるんだ。微笑ましい。
「しかし、キョースケと一緒だとご飯食べ過ぎて太るな」
人参は好みではないらしく、御丁寧にいちいち避けて食べながらここなが言った。
「ココはもう少しふっくらしてもいいんじゃないかと」
その細い腕を見ながら、さりげなさを装って京介が言う。
しばしの沈黙。
「ん? ココって私のこと?」
ここなが尋ねた。
「そう、嫌?」
「嫌じゃないよー。渾名、的な」
「うん、まあ」
ここなは中曽根さんと呼ぶと怒るが、京介としてはあまり、ここなとは呼びたくなかった。呼ぶたびに、心中という字面を思い出すから。
だから、こっそり考えていた妥協案だ。
「いいねー。私、ずっと渾名って近松しかなかったから嬉しいー」
「近松……門左衛門?」
こくり、とここなが頷いた。
「まんまだな。ちょっと博識だけど」
っていうか、いじめられてただろそれ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「同情した?」
飲み込んだ言葉を察知して、ここなが笑う。
「いや、別に?」
「なんだー、同情から始まる恋もあるかと思ったのにー」
「結局それかよ」
ここなは、にぱっとはじけるように笑い、
「キョースケのつっこみ好きー」
当たり前のように言った。
ジャガイモを喉に詰まらせそうになり、キョースケは少しむせる。
あまり本気にしないようにしよう、と改めて思う。いちいち驚いてたら疲れそうだし。
「で、何してるの?」
「人参きらーい」
せっせと避けた人参を、京介のお皿に当たり前のように移しながら、ここなは唇を尖らせた。
見る間に山盛りになっていく人参。なんて言葉を返すか迷い、
「あのさ、嫌いなもの、あとで書き出しといてくれる?」
結局、そう告げた。
「はーい、あとはね、セロリとかー」
人参のいなくなったカレーを、幸せそうに頬張りながらここなが答える。
嫌いな野菜はみじん切りにして混ぜてやる。考えて、京介は少し笑った。
コットンパックをしながら、片足を洗濯機の上に載せて柔軟しつつ、歯を磨く。
それが終わったら、化粧下地を小鼻辺りに伸ばし、塗り込み、塗り込み、塗り込み、フェイスパウダーをはたき、黄色のコントロールカラーを目の下に、ピンクのコントロールカラーを頬に塗り込み、塗り込み、塗り込む。
リキッドファンデーションに乳液を混ぜたものを丹念に塗り込み、塗り込み、塗り込み、塗り込み、
「塗り込み過ぎじゃね?」
「んー?」
「なんでもなーい」
パフでしっかり抑えると、フェイスパウダーを上からはたいた。マットな肌が完成する。
ノーズシャドーをいれて、ハイライトで目元を明るくする。ピンクのチークを丸く、頬にいれる。
ピンク系のアイシャドウをグラデーションにして塗り、目のきわは茶色で馴染ませる。黒いアイライナーを少しオーバーにひき、目頭には白いラメを少し。アイライナーは、たれ目を強調するように。下瞼にも。
ビューラーで睫毛をあげ、つけまつげをそこにつけて、つけて、つけて、
「三枚……」
「んー?」
「なんでもなーい」
それをマスカラで馴染ませる。下睫毛にもつけまつげを。
眉を書いて、ピンクの口紅を塗った上にグロスを重ねた。
そのままコテを手に取り、毛先だけを器用に巻いていく。巻きすぎないように、ゆるくふわっと、やわらかに。
顔まわりの髪を残して、耳上の髪を高い位置で結ぶ、ハーフアッブ。
毛先を逆立てボリュームをだし、バランスを見ながらさらに髪を巻く。
前髪を斜めに流して、
「かんっぺき」
ここなは鏡をみて微笑んだ。
子どもみたいに人参を避けていたのとは違う、完全武装した女がそこには居た。
「……女ってこわー」
一部始終を見ていた京介が小さく呟く。
「騙されたら駄目よ? 女の人は化粧でいくらでも他人になれるのだから」
ここなが笑う。
「肝に銘じておきます」
胸に手を当てて、ちょっとおどけて言うと、
「その必要はないわ」
遮られる。
「だってキョースケは私と心中するんだもんね」
「だからしないってば」
くすくすと、ここなは楽しそうに笑う。
しゅっと香水を宙に向けて放ち、その下をくぐる。
「さってと」
鞄を肩にかける。
「ご出勤で?」
「ええ。先に寝てていいからねー」
軽く言い放つと、華奢なヒールを身にまとい、ここなは出て行った。
残されたフルーティな香りに京介は宙を見上げて嘆息する。
「完全に、ペースに飲まれている」
いいのか悪いのか。
「ってか、冷静に考えたらこれってヒモだよな」
誰もいない部屋に言葉が響く。
深くかかわって、傷つくのはきっと自分だけではすまない。
いつまでもここにいるわけにもいかないし、本当に心中するわけにもいかない。だから、さっさと見切りをつけてしまわなければ。
そう思う。
本当ならば、いますぐにでもここから出て行くべきなのだろう。
それでも、まだ少し、ここでくだらない同居人ごっこをしたいな、と思ってしまった。
明日の朝ご飯は、何にしよう。
小走りで、ここなは夜道を急いでいた。
灯が一つ消えた地下道の階段を駆け上がる。
マンションは地下道をあがったすぐ正面だ。
慌ただしく鞄から鍵をだして、扉を開ける。
「おかえり。どうした、急いで? なんかあった?」
ソファーでテレビを見ていた京介が当たり前のように言った。
その光景に泣きそうになる。
「ううん。ご飯いっぱい食べちゃったからダイエットー」
笑う。バカみたいに。
「ふーん? 危ないよー」
出会った時みたいな、ぽーんっと突き放した言葉。
でも、彼はここにいる。
帰ったらいなくなっていたらどうしようかと、思っていた。
「寝ててよかったのにー」
言いながら靴を脱ぐ。
「んー、家主より先に寝るというのもなー」
律儀に京介が言う。
京介は優しい。この同居人ごっこに付き合ってくれる。
最初は半分ぐらい冗談だった。まさか本当に心中してくれるとは思っていない。そんな奇特な人間がいるとは思えない。
でも今、割と本気で望んでいる。願っている。
この心地よい関係が永遠に続くようにと、それが無理ならば一緒に終わらせて欲しいと、望んでいる。
否、永遠に続くわけなんてないのだから、今の段階で終わらせて欲しいと、思っている。
幸せは絶頂のうちに切ってしまうべきだ。絶頂からあとは、ただ落ちるだけなのだから。幸せのあとの不幸は、格別だ。
「もー、キョースケやさしー」
バカみたいに甘えた声を出して、バカみたいに京介に抱きつく。
「うわっ」
慌てた彼が肩を押すから、素直に離れた。
「ね? 心中してくれる気になった? 私のこと好きになった?」
でも顔を覗き込むようにしながら畳み掛ける。
「だから心中しないってば」
軽い会話を繰り返す。
いなくならないで。ここにいて。それが無理なら一緒に死んで。もう一人にしないで。一人で死にたくない。
言葉は外に出さず、
「もー、しょうがないから、その気になるまで待っててあげよう」
ここなはバカみたいに笑った。
「それはそれとしてぇ、明日、おやすみもらったから買い物いこー?」
「買い物?」
甘えるように、京介の肩に頭を載せる。京介は何か言いたそうな顔でここなを見下ろしたが、結局黙ってされるがままになってくれた。
優しい人。
「キョースケの服とかさ、買わないとじゃん? ジャージじゃ駄目でしょう?」
「ああ、そっか。うん、すみません……」
「ううんー。私、お金たくさんもってるからー。普段あんまり使わないしー」
「……うん、財布の中に思った以上に金額が入っててビビった」
「でしょ? でも、一応家計簿付けてんの、偉くない?」
「おー、意外。偉い偉い」
「もっと褒めてー!」
はしゃいで笑う。明るい声をだす。
「だから、明日、買い物。いい?」
明るい声のまま尋ねると、
「うん、わかった」
京介はあっさり了承した。
気持ちが浮き上がる。
これで少なくとも、明日は彼はここにいてくれる。
「えへへ、楽しみー」
ぽんっと弾みをつけてソファーから立ち上がる。
「私、シャワー浴びてくるー。キョースケ、本当にもう寝ていいよー」
「うん、わかった。おやすみ」
「うん、おやすみー」
ぷちっとテレビを消して、京介がソファーに横になった。
いつまでも彼をソファーで寝かすわけにもいかないし、布団でも買おうかなーとか思いながら、ここなは浴室に向かった。
布団まで買ったら、人のいい京介のことだ。でていけなくなるんじゃないか、そうも思った。
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