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第五章 問題視と楽観視
「ねぇー、ここなー。最近なにかあったぁー?」
お店の女の子の言葉に、ここなは首を傾げた。
「何か?」
「いいこと。男でも出来た?」
「そんなこと、ありませんよー?」
笑って言葉を返す。
「最近、機嫌いいから」
「それ、最近みんなに言われるけど、なんでですかねー。なんにもないのにー」
ここなはさらりと流すと、私服に着替えた。
「それじゃあ、お先でーす」
微笑んでその場を立ち去る。
「あたし、あの子きらーい」
後ろから聞こえてきた声は、聞こえないふりをした。
夜道を歩きながら考える。
昔から、何故か同性には嫌われた。男に媚びを売っていると言われて。別に、そんなつもりなかったのに。
かといって、男にモテたわけでもない。男性に相手をされるようになったのは最近だ。
学生時代の自分は、暗かったな、と今なら思う。
心中という言葉の意味を理解し、母親に対してなんていう名前付けてくれたんだ、と思ったころから、特に暗くなったと自分でも思う。
卑屈になった。卑屈になれば卑屈になるほど、おもしろがっていじられた。考えてみたらいじめではなかったのだろう。彼らにしてみれば、変な名前のクラスメイトをいじって遊んでいただけだったのだろう。
だけど、近松と呼ばれるのも、いつ死ぬのかと聞かれるのも、あの時のここなには本当に堪え難い苦しみだった。
大人になって、気がついた。名前について親の学のなさとか、だから近松って呼ばれていたことなどを面白おかしく話す。それだけで、みんな面白いぐらい簡単に同情してくれることに。
ポイントは面白おかしくしながらも、それでも少し自分が傷ついたことを示すことだ。重過ぎる話はひく人も、このレベルならうまく対応してくれる。
同情してお客になってくれるのは、純粋に嬉しいし、ありがたい。
それでも、同情されるたびに少しずつ自分の何かが削られていく気がしていた。多分、京介の言うところの、自尊心が。
本当に不幸な人間を見たら気を使わなければいけない。気軽に可哀想なんて言えない。だけど、ここなの話レベルの可哀想な話ならば、ここなちゃんは大変だったねと言って同情するふりをすればいい。そうして彼らは思うのだ。世の中には可哀想な人間もいるものだ、自分に比べて。
他人の不幸で自分の人生の幸せを実感する。そのために、ここなの自尊心は消費されていく。
それも今では特に何も感じない。きっと、削られ過ぎて自尊心が無くなったのだ、と思っている。
それでも京介が過度な同情をしたり、同情した自分に酔ったりしないでいてくれることは嬉しい、と思う。
優しく慰めてくれるようなことをしたのは、結局花火大会のあの日だけで、あとは特にいつもと変わらない。口を開けば心中はしない、と言い張る。
そうやってひきずらないで居てくれるところは嬉しいけれども、劇的に変化しない関係に少し苛立ってもいる。
来年も来よう、という彼の言葉は聞こえていた。それでも、聞こえないふりをした。
本当は、彼がずっと傍に居てくれるなら、このまま頑張って生きていこうかな、と思ったこともある。
でもその度に、そんな自分を戒める。
いまのままずっと、が続くわけないのだ。だから人は離婚をするのだ。結婚でさえも、二人の愛を縛り付けてはおけない。
そうじゃなくても、いつかはどちらかが死ぬのだ。死に別れるのだ。
それならば、愛がもっとも輝く時に、輝くまま終わらせるべきだ。
「一緒に死にましょう」
唇だけで呟いた。
いつもの地下道に通りかかる。灯はいつの間にか、新しいものに変えられていた。今日も壁の女の子が笑顔を浮かべている。
笑っているのに、何故か気味が悪い。嫌いじゃないけど、薄気味悪い。いつもと同じことを思い、通り抜ける。
ふっと、背後に気配を感じた。
少し遠くに、誰かいる。足音がある。
ここなは数歩自然に階段をのぼり、一気に駆け上がった。後ろの足音もそれに合わせて早くなる。
かかかか、と自分の足音が地下道に響くのを感じながら、階段をかけあがり地上にでる。後ろはふりかえらない。
そのまま走って、自分のマンションに逃げ込んだ。
エレベーターの代わりに、横の非常階段を四階までかけあがり、慌てて鍵を開ける。
「おかえりー。どーした、慌てて?」
いつもの調子で京介が出迎えてくれた。
先に寝ていていいと、何度も言っているのに、京介は絶対にここなが帰宅する時間には起きている。たまに、その前に眠っていた気配があるので、わざわざ起きてくれているのだろう。
そこまでしなくていいのに、と思う。そんなに気を使ってくれなくていいのに。
それでも、家に帰ると人がいて「おかえり」と言ってくれるのは、部屋に明かりがついてるいのは、やっぱり安心する。
こんな時は特に。
「うーん、ちょっと」
後ろ手で鍵をかけ、チェーンもかける。
「なんか、やっぱり尾行されてるかなーって」
淡々と呟いた言葉に、
「はあ?」
京介が怪訝な顔をした。
「何それ? ストーカーってこと? マジ? 危ないなー、平気? 相手誰だかわかる? いつから?」
立て続けに並べられた質問に、
「キョースケがくるちょっと前ぐらいからあって、毎日とかじゃなくてたまにだから偶然かなーとは思ってたんだけど。やっぱり偶然じゃないかも」
靴を脱いで部屋にあがると、眉根を寄せた京介がソファーから立ち上がって近づいてきた。
「大丈夫? 平気? やっぱり夜道危ないって。どこで?」
「うーん、なんかいつも地下道で待ち伏せされてる、気がする。週一ぐらいで」
「だから地下道危ないって言っているじゃん」
少し苛立ったような声。
それに思わず、少しだけ笑ってしまう。嬉しくて。
「何笑ってんの?」
「笑ってない。怖かったの」
そう言ってちょっと抱きついてみる。彼は困ったように手を動かして、結局突き放したりはしなかった。
決して、背中に手を回してくれたりもしないけれども。
以前は、最初は、あんなに突き放したものの言い方をしていたのに。心配だとか、危ないとかいいながらも、どこか距離をとっていたのに。
それが今は、心配してくれる。
悲しいぐらいに。
「地下道通らないように」
「んー、わかったー。近道なんだけどなー」
頭の上からふってきた声に、体を離し、唇を尖らせてみせた。
「ココ」
窘めるように名前を呼ばれて、肩をすくめる。
「わかってる」
怖かったのは事実なのだから。心配されるのが痛くて悲しくても、心配されたかったから我が侭を言ってみただけだ。
「ならいいけど」
まだ少し、どこか納得していないような顔をしながらも、京介は頷いた。
「っていうか、俺よく知らないからイメージだけど、送迎とかってあるもんじゃないの? ココとかの店って」
「んー、ないこともないけど、私、家近いからさ。だってほら、歩いて十分だもの」
微笑んで見せるけど、京介の表情は和らがない。険しいままだ。
その表情に気持ちが焦る。お願い笑って。心配はして欲しいけれども、そんなに険しい顔をされるのも不安になる。私のこと、嫌いなんじゃないかって。
「じゃあ、危なくなったら連絡するから迎えにきて」
だから、いいことを思いついた、と両手を打ち合わせる。いつもの明るさで。いつものように少しおどけて。
「連絡って」
「電話するから」
「どこに?」
真顔に問いかける京介に、ここなは少し固まる。
ここなの家には固定電話はない。
「……そういえば、今まで一度も聞いたことないけれども、キョースケ、ケータイは?」
「持ってないよ」
「……なんで今時ケータイも持ってないの?」
「ケータイ持つお金があったら他のことに使うし」
沈黙。
「……まあ、今までこの点に気づかなかった私がバカだわ。今度一緒に買いに行きましょう。安いのでいいわよね?」
「別にいらな……」
「私がピンチの時に助けにきてくれないの?」
真顔で言い切る。
内心では会話の矛先を変えられたことに安堵していた。
「俺、ヒーローじゃないんだけど」
小さく呟きながらも、それでも京介は頷いた。
「まあ、確かに、電話があった方がいいですね」
京介のバイト先、喫茶店のマスターはのんびりと言った。
「バイトの連絡とかもありますしね、そっちの方が助かりますね」
「あー、すみません」
テーブルを拭きながら答える。
「というか、本当、すみません。ありがとうございます。俺みたいななんていうかこう、得体の知れない奴を雇って頂いて」
言うとマスターは楽しそうに笑い、
「京介くんは昔のわたしにどこか似ていますから。やんちゃで」
穏やかに微笑むマスターが、若いころはやんちゃで色々と無茶をした、という話は本人から何度も聞いているが、イマイチ信じられない。
「料理も上手だから助かっていますしね。それに」
珈琲をカウンターにおき、微笑んだ。
「君の人柄を信頼していますから」
そういって椅子を勧める。
その言葉に少しのくすぐったさを覚える。テーブルを拭き終わった京介は、休憩がてら素直に椅子に座る。
「俺、電話って苦手なんですよねー、相手の顔が見えないし」
いつものように、豊潤な香りのする珈琲を味わう。
「京介くんは若いのに、少し機械類が苦手ですよね」
マスターがどこか憐れむような口調で言った。
「……マスター、得意ですもんね。パソコンも」
「ええ」
楽しそうにマスターは笑う。
曾孫までいるというこの老人は、それでもスマートフォンを使いこなしていた。
「連れを亡くして、ふさぎ込んでいる時に、孫がくれたんですよ。ボケ防止に」
「お孫さん、優しいですね」
京介は微笑んだ。
からころと、鈴の音がしてドアが開く。
「あ、いらっしゃいませ」
慌てて京介は椅子から立ち上がり、
「なんだ」
入ってきた人物達を見て、ため息をついた。
「あらやだ、何だってなによ、京介くん」
「せっかくのお客さまにその態度はないんじゃないの」
「そうよそうよ」
入ってきたのは店の常連。商店街の奥様達だった。週に一度、木曜日のお昼すぎに彼女達はここに集まっている。週に一度の息抜き、ということらしい。
「ご注文は?」
「いつもの」
代表して八百屋のおばちゃんが言った。
「はい、かしこまりました」
それでもきちんと注文を取る。
彼女達はいつも一番安いブレンドコーヒーだ。
「京介くん、カノジョお元気??」
「ええ、まあ」
カノジョではないけれども、女性と一緒に住んでいるとまで言っている以上、否定できなかった。恋人ではない女性と一緒に住んでいるなんて言ったら、どういうことだとか責任をとれだとか、余計、面倒なことになりそうで。
それに、
「あらやだ、京介くんカノジョ居たの? うちの娘どうかと思ってたのに」
「あらー、あんたの家の娘なんて京介くんだって困るわよね」
「なんでよ」
「だってもう、三十五でしょう?」
「……そうなのよねー」
こういう、無意味なお見合い的なものも避けられるし。
ぺちゃくちゃとした会話をバックに、珈琲をいれるマスターの手元を眺める。
骨張って古そうな傷を持つ、年齢を感じさせる手は、それでもしっかりと珈琲をいれていく。
おしゃべりの合間から、マスターの好みのレコードが流れる。
こういう老後は素敵だな、と京介は少し思っていた。小さくても自分の好きなものを集めた店をやる。自分ならば、小さな料理屋なんてどうだろう。自分に出来るかはわからないけれども。
「はい、お願いします」
「はい」
人数分のいれたての珈琲をトレイに乗せる。いれたての珈琲のいい香りが鼻腔をくすぐる。
「お待たせしました」
できたそれをテーブルに運ぶと、
「カノジョ、連れていらっしゃいよ。見てみたいわー」
と八百屋のおばちゃんがいった。言いながら珈琲を置いた京介の右手をがっしりと掴む。逃げ出せない。
「京介くんの服、その子が選んいでるんでしょう? センスいいわよねー。働いてほしいわー」
とブティックのおばちゃん。
「え、あ、はい、うん」
曖昧に返事をしている間に、話はどんどん膨らんで行く。
結婚式には呼べだの、結婚式のケーキはうちの店で買えだの、着付けはうちの店がやるだの。
「京介くんは、人気者ですねー」
暢気にマスターが呟いた。
「久慈さんお久しぶりですぅー。ちっとも来てくれないからぁ。メールの返事もくれないしぃ」
ここなの言葉に、常連客である久慈は黙って一つ頷いた。
久慈は、以前は毎週のように来ていたのに、最近姿を見せていなかった。
「仕事、忙しくて」
ぼそぼそと、呟かれた言葉に、
「じゃあ、今日はゆっくりしてくださいねぇ」
いつものように笑いかける。
「ここなちゃん」
「はぁい?」
小首を傾げる。
「最近も、同じ?」
それは彼が来るといつも言う言葉で、
「ええ、なんにも変わらないです」
微笑んだまま、答える。
「生き辛い?」
「そうですねー」
「心中したい?」
「出来たら良いですよねー」
朗らかに答える。
久慈は何かに満足したかのように、二度三度頷いた。
「ほらほら、久慈さん飲んでー」
お酒のグラスを渡した。
隣のテーブルで、楽しそうな笑い声がする。
俯いた久慈の顔は、長い髪に隠れて見えない。
このいつもの会話をしたら、久慈はしばらく話さない。
明るく会話とかを求めていない。彼もまた、自分よりも下の人間を見て安心しているのだろう。だってなんか暗いし、周りに馴染めなさそうだし、とこっそりここなは思っていた。
それで構わない。減る自尊心は既に無くなったから、それで構わない。
久慈がゆっくりと煙草を取り出した。
「はい」
条件反射で火を差し出す。
煙草に火がつく。
「久慈さん、ジッポお洒落ですねー」
煙草と一緒に取り出されたジッポを見つめる。
「こういうの、どこで買われるんですかー?」
ここなの問にぼそぼそっと久慈が答える。
「へー、お洒落ー、かっこいー」
言いながら、ある算段を脳内で立てた。
帰り道を急ぐ。言いつけどおり、ここ一週間、地下道は通っていない。
「ココ」
かけられた声に顔をあげる。
「キョースケ」
電柱にもたれかかるようにして立っていた京介の元に小走りでかけよる。
「どうしたの?」
「迎え」
「あら」
少し目を見開く。
「珍しい」
「つけられてたとか言うから」
「心配してくれたんだ?」
「明日、バイト休みだし」
負け惜しみみたいにつけたされた言葉に少しふきだす。嘘の付けない人だ。
なんだよ、とでも言いたげに京介に睨まれた。
「ありがと」
素直に笑う。
歩き出す。
「でも、私、ちゃんと地下道通らなかったよ、あの日から」
「知ってる」
京介の横顔を見あげる。
「知ってる?」
それはこの流れでは少し変な言葉ではないだろうか。
「……言葉のあや」
仏頂面で言った彼の横顔を黙って見つめる。見つめ続ける。
「ココ、帰りにコンビニでおでんとか」
「キョースケ」
言葉を遮る。
京介はここなに一度視線を移し、諦めたように、
「張っていたから」
「え?」
「地下道」
沈黙。
その沈黙から逃れるように、少し早足になる京介の後を追う。
「ちょっと、どういうこと」
「だから!」
少し大声を出して、京介が振り返る。
「見張ってたんだってば、地下道!」
「意味がわからない」
「わかるだろうが!」
「わかんないってば」
「ココがその、つけられるのは地下道からだっていうから、しばらくココが帰ってくる少し前の時間、地下道辺りを散歩してたんだ」
ばつの悪そうな顔をする。
「変な奴居ないかって。変な奴は、俺だけだった」
おどけて付け足された言葉にも、ここなは反応しない。
「だって、キョースケ昼間バイトして疲れてるじゃない」
「別にちょっとした夜の散歩だと思えば」
「危ないじゃない」
「俺、前ひったくり撃退したの見たじゃん」
「私が帰ってきた時には家に居たじゃない」
「気を使わせちゃいけないと思って」
だから黙っていようと思ったのに、口が滑った、と小さく京介がぼやいた。
むすっと背中を向け歩き出す。その背中に向けて走り出した。
「うわ」
ぼすっと、体当たり。
「ココっ」
そのまましがみつく。抱きつく。
「キョースケって本当、お人好しね」
その広い背中に額をくっつけて呟く。
「知ってる」
声が額を通して聞こえる。
「普通、ただの同居人相手にそんなことしないでしょう」
「俺もそう思う」
「いきなり現れて心中しましょう、なんていう相手、どう考えても変人じゃない」
「ああ、自覚あったんだ」
「普通ならもっとさっさと逃げ出すわよ。っていうか、最初のときにのこのこ家まで来ないわよ」
「そうだよなー」
「もう、お人好し過ぎて、バカなんじゃないの」
泣きそうになる。
「うーん、自分でもバカなんだろうな、って思っている」
「ばかばかばかばか」
京介は何も答えない。
期待、してしまうではないか。こんなに優しくされると。
このままずっと家にいて、ずっと一緒に住んで、ずっと優しくしてくれるんじゃなかって、期待してしまうじゃないか。
「……期待、させないで」
絶対なんてあるわけがない。このままなんて叶うわけがない。永遠なんてあるはずがない。
心配されると悲しくなるのは、優しくされると胸が痛むのは、いつか来る終わりが怖いからだ。こんなに心配してくれる人だってきっといなくなる。優しくしてくれる人だってずっとそばにいてくれない。そのことを考えると、不安になる。そんなことになったら、私はどうしたらいいの?
一緒に居てくれるかもしれないという期待が裏切られたら、私はどうするの?
「期待、すればいいじゃん」
京介が小さく呟く。
ここなは顔をあげない。あげられない。どうして、そんなことを言えるのだろう、この人は。
「……心中はしないけど」
少し慌てたように京介が続ける。
その言い方に、少しだけ笑った。ようやく少し笑えた。
「キョースケは、優しいけど頑固」
思わずそうやって呟くと。
「そりゃー、そうだろー」
背中が揺れる。少し笑ったようだ。
「ココ、コンビニでおでん買おう。なんか、腹減った。おごるよ」
普通の調子で彼は言う。この話はここで終わり、ということだろう。
「……唐揚げも」
「わかった」
一度京介の背中に向けてぐっと額を押し付ける。それから、勢いを付けて離れた。
「うん」
それを見て、少し京介が微笑む。
「ってか、おでんぐらいで偉そうだな、俺」
「えー、嬉しいよー」
そのまま、いつもと同じ笑顔で笑いながら歩いた。
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