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これは八月の夏の盛りの日の話である。
高校生の僕は、講習が休みの日曜に、季節限定のフリー切符である、青春18きっぷを使って日帰り旅行に出かけた。特に計画は無かったが、自然豊かな場所に行きたいという気持ちだけはあった。なので、とりあえず電車を乗り継いで、遠く山の方へと向かうことにした。そして三時間ほどだっただろうか、とある田舎駅で僕は、二両編成の小さな気動車に乗り換えた。
ボックスシートを確保すると、ほどなくして自分と同級生ぐらいの一人の少女が乗ってきた。その彼女は、白のワンピースにサンダルといかにも夏らしい装いである。
一通り車内を見渡し、僕のすぐ隣まで来ると、
「ここ、隣座ってもいいですか?」
と遠慮がちに彼女は訊いてきた。自分としては特に断る理由もなかったので、いいですよ、と言うと彼女は、ありがとうございます、と笑顔で応えれくれた。そして、そんなやりとりに僕は心地よさを感じる。
さて、気動車が駅を出発してしばらく、彼女と二人で話していると、彼女の目的地についての話になった。
「私、三つ先の駅で降りるんです」
「へえ、そこで何をするの?」
「絵を描くんです。広い牧場が気持ちいいんですよ」
彼女はそう言うと、何やらスマホを操作した後、こちらに差し出した。
「ほら、こんな感じの場所なんですよ」
画面には青々とした牧場と、山と空が映し出される。
「こりゃあ気持ちの良さそうな」
「そうなんですよ……ああ、そうだ、もしよかったら一緒に行きます? 確か、特に行く場所を決めてないんですよね」
彼女はそう言ってこっちを窺ってきた。僕としてはその場所自体に興味を持ったので、その問いに首を縦に振った。決して、彼女と一緒だからとかいう理由ではない。
◆◇◆
電車がその駅に着くと、僕ら以外にも三割ほどの乗客が降りた。どうやら沿線の主要観光地らしく、駅前には土産屋がいくつか営業している。
僕らはその脇を抜け、自転車を借りると牧場へ向かう。そういえば、夏ではあるもののここらは標高が高く、快適に移動することができた。
「うーん、気持ちいー」
牧場に着くと、僕はそうやって腕を伸ばした。
「ホント、最高ですね」
白いワンピースを着た彼女は、こちらを向いて笑いかけてくる。そんな姿は青々とした牧場によく映え、とても絵になるなと僕は感じた。
到着した後、しばらく散策をすると、彼女は自分なりに気に入った場所があったらしく、リュックから木の折りたたみ椅子とキャンバスを取り出し、帽子をかぶるとスケッチを始めた。
最初のうちは近くで描いているのを僕は眺めていたが、少し気まずくも感じたので、ここの名物だというソフトクリームを買うことにした。彼女の分も。
買ってからは、溶けないうちにと彼女のところまで早歩きをした。
「ソフトクリーム買ってきたけど、一つどう?」
そう尋ねると彼女はこちらを見て、笑った。
「ありがとうございます」
「そっちこそここを教えてくれたし、それのお礼」
「いや、そんなお礼されることでは無いですよ。あっ、でもこれとても美味しいです」
彼女はそう話す。自分としては、それを聞けただけで、買ってきた甲斐があるというものである。
「ホント? なら良かった」
そう言って自分も食べる。無論、美味しく、濃厚なミルクの味が広がる。そして、その美味しさゆえにすぐに食べ終わってしまうと、彼女の描いている絵が気になった。果たしてどんな感じなのだろうかと。
だから、
「そういえば、絵ってどんな感じか見せてもらえたりする?」
と僕は彼女に尋ねる。すると彼女は、
「いいですよ。でももう少しで完成しますから、そこまで待ってください」
と答えた。そして十分余りの時間が経ったころ、彼女の筆が止まった。
「えっと……描き終わった感じ?」
すると彼女はこちらを向いた。その表情は満足げである。
「ええ、終わりました」
「じゃあ見ても……」
「勿論です」
そう言って彼女は、キャンバスを僕に快く渡してくれた。なので僕はその絵を見る。
絵は端的に言うと美しかった。
僕自身は美術には疎い方なので、技術的なこととかについては全く評価できないが、水彩画で描かれたその世界は、引き込まれそうなほどに透き通っている。
「どうですか?」
「うん、凄い、まるでプロみたいだ」
僕はそう小学生並みの感想を言う。こういう時に語彙力があればなとは思うが、彼女はとても驚いた顔をした。
「そう、そう言ってもらえると嬉しいです。いつもダメなところばっか指摘されてしまうので」
「ええっ、こんなに上手いのに?」
「いやいや、そんな上手くないですよ。でも本当にありがとうございます。ああ、そうだ、その絵、良かったらどうです? 貰ってもらえます?」
僕は遠慮すると彼女に失礼だなと思ったので、貰うことにした。それにこの絵自体すごく気に入っていたので嬉しかった。
◆◇◆
帰りの気動車もまた、二人でボックシートに座った。窓には遠くの連峰に沈む夕日が映り、車内を優しく包んでいる。
「そういえば、さっきプロみたいだって言ってくれましたよね?」
彼女はそう訊いてきた。
「まあ、そうだけど」
「私実は、みたい、ではないんです」
「ん……てことはプロっていうこと?」
すると彼女は静かに頷いた。
「……って言ってもたまに仕事が来るぐらいの無名なんですけどね」
「いや、凄いよ、僕と同い年ぐらいなのに」
僕がそう言うと、彼女は笑顔になる。
「そうやって褒めてもらえて嬉しいです」
「いやいや、こっちこそ、同じ年代の人がこう頑張っているっていうのを知れてとても励みになるよ」
「優しいんですね。ありがとうございます」
そうやって話していると、乗り換えの駅まで戻ってきた。そこで彼女は、僕とは逆の方向の電車に乗るそうで、ここで別れた。
そういえば別れ際、日が沈んだホームで彼女は、
「今日は本当に楽しかったです。では、またいつか会えたら」
と話しかけてくれた。表情はよく見えなかったが、声からその感情はよく伝わってきた。なので僕も、
「こっちこそ楽しかったよ。ありがとう」
と、叫んでみた。それが青春をしているようでとても楽しかった。
そしてここから三時間、家までの普通列車旅は続いた訳だが、これも青春の一ページであることに違いはない。全てはカラフルに見えた。
◆◇◆
あの日からしばらくたった後、彼女がネットで作品を売っていることを知って、僕は自分家に飾れるほどの小さな絵を何回か購入した。そのどれもが自然豊かで、僕の疲れてくれた心を癒してくれ、確かな勇気をくれた。だから、こうして職につき、家庭を持ち、自分なりの幸せな生活を手に入れることができた、と言っても過言では無い。
そういえば今度、家から電車で三十分ほどのところで彼女は立派な個展を開くそうだ。僕は、家に飾ってある絵ですっかりファンになった娘と一緒に観に行こうと思う。
そして展覧会のテーマは『夏の牧場』だそうだ。
あの日のことかどうかは分からないが、とても楽しみにしている。
【完】
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