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第1章 喪に服す期間
灰色の空の下、富豪の邸宅へと続く坂道を歩く一人の女性がいた。私有地とは思えない小高い丘を歩き続ける道のりは、アスファルトで塗り固めたそれではなく、石畳を選んでいる辺りはセンスがいい。そしてそれは財力の高さをそのまま表している。
乗馬をするにはもってこいだといった平原から、晩秋の清々しさに入り混じって、少し肌寒さを感じ始める風が通り抜ける。それでも、黒い修道女の神服を纏った彼女は、脇にうっすらと汗をかきながら、目的の邸宅を目指して闊歩していた。
「ふぅ……。これは、ちょっとした運動だわ」
尼のフードから覗く小顔は一見、若々しく美しい娘だ。なのに化粧気の全くない面差しは、何故か実年齢を不確かにする。それは、彼女の瞳の所為だろうか。老獪な騎士のように深い眼差しが、そう思わせるのかもしれない。
ようやく辿り着いた現代建築の粋を極めたような邸宅の門前で、息を整えた彼女は呼び鈴を押した。内蔵されたカメラを覗く。
「セントラル教会より派遣されました修道女カラと申します」
「入室を許可します」
聖名を名乗ると、自動で門が開かれ中へ招かれた。そこかしことハイテクであることに内心で感嘆する。ここまで来る道なりの平原も、垣間見えた庭園も手入れは充分すぎる程に行き届いている。そして、それらの景観を損なわない華美過ぎない邸宅は、住む者の品位を伺わせた。
カラはこの時点でこの邸宅に住む者に好感を抱いていた。それは実際に彼女の雇用主に会っても変わらない。そう、彼に会うまでは。
「あなたに依頼するのは私の一人息子、アルフォードのことです。簡単な介護と話し相手を務めてください。息子は事故以来ふさぎ込んで、人を寄せ付けないの。時には怒りっぽくて手に負えないことも……。気晴らしになってあげて頂戴」
客間に通されたカラは直ぐに事務的な手続きと、説明を受ける。こうしたことに手慣れているのだろう、雇用主の話しぶりに迷いはない。
「雇用期限は約半年。介護についての詳細は主治医のマシューに訊いて頂戴。マシューは毎日十時から十七時の間は大抵屋敷に在中してくれているから」
事故以前のアルフォードは、順風満帆な未来しか描けないような青年実業家だった。聡明な彼の手掛ける事業は多岐にわたって成功を収め、独身貴族と謳われていた彼が、ようやく美しい婚約者を得てこれから益々躍進する。
そう、周囲の人間が期待していた矢先のことだ。
そんな彼を神が妬んだのか、彼は交通事故で四肢麻痺になる。それが4年前の出来事。
今では首より下は動かせない。
「何か質問は?」
「いいえ」
短的に応えると、雇用主であるマダム・エリザはカラの黒曜石のような静かな瞳を見つめた。若すぎると一度は落胆した気持ちが失せる。
落ち着いた、思慮深いカラの眼差しにエリザは満足した。
「そう。ならいいわ。息子を紹介するわね」
「息子の部屋は馬小屋を改装した別邸なの。車椅子だと色々不便でしょ?こっちよ」
客間を抜けてリビングに案内された。
暖炉横の壁には広々とした引き戸が設えてある。
マダム・エリザが引き戸に向かって進めば、それは自動で開け放たれた。現れたのは広々とした通路。開放感のある長い通路はガラス張り。まるで美術館にでも来た心地になる。美しい庭園の中を走る通路は別邸へと続いていた。リビングをぶち抜いて別邸と本低を繋げたのだろう。家族が集うリビングへ真っ先に向かえるよう考えられているのは、ウイッシュナー家が愛ある一族だからだとカラは感じた。
「マダム・エリザ、素敵なお宅ですね」
カラは心からの賛辞を述べていた。
「あ、ありがとう。」
マダム・エリザは少し意表をつかれた顔をしつつ、そっけなく礼を述べる。
――下々の人間からの賛辞は不躾だったのかもしれないわね。
この邸宅は誰がどう見ても裕福で、素晴しいのだから。
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