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インターホン越しに名乗ると、珍しくドアの向こうの相手は驚いた様子だった。
警戒したようにそっとドアが開けられ、わずかに顔を覗かせた裕貴が目を丸くする。こういう表情もできるのだと、心の中で啓太郎はにんまりしていた。
「――よお」
「よお、って……」
ドアを大きく開けた裕貴が、まじまじと見つめてくる。寝起きなのかまだパジャマ姿で、乱れた不揃いの髪をくしゃくしゃと掻き上げた。
「……おれ、曜日の感覚がさっぱりないから自信ないんだけど、今日って、平日、だよね?」
「しっかりしろよ。平日に決まってるだろ」
啓太郎の答えに、わけがわからないといった様子で裕貴は眉をひそめる。
「だったらなんで、昼間のこんな時間に、羽岡さんがここにいるんだよ。まさか、会社をクビになったとか――」
「お前、さらりと不吉なこと言うなよ」
思わず声を洩らして笑った啓太郎とは対照的に、裕貴はますます眉をひそめる。その理由を本人が口にした。
「まさか、昼メシまで食わせろとか言うわけ?」
会社でちらりと似たようなことを考えたとは、口が裂けても言えない。
啓太郎はできるだけ素っ気なく、後ろ手に隠し持っていた袋を裕貴に押し付ける。すると裕貴は、手にした袋と啓太郎の顔を交互に見てから、袋に鼻先を近づけた。
「いい匂い……」
「当たり前だ。焼きたてを買ってきたんだからな」
啓太郎の言葉を受けて、裕貴が袋を開けて中を覗く。数秒の間、なんの表情も浮かべなかったが、ようやく顔を上げたとき、裕貴の顔にあったのは意外にも無邪気な笑顔だった。
「ここのクロワッサン、一度食べてみたかったんだ」
「美味いものを、俺だけ食うのも悪いからな。『お裾分け』だ」
「なんだ。それが言いたかっただけか。――はいはい、ありがたくいただきます」
可愛くない、と危うく言いそうになったが、寸前のところで堪える。
「とにかく、俺の好意をありがたく味わってくれ」
そう言ってかっこよく立ち去ろうとしたが、このとき最悪のタイミングで啓太郎の腹が鳴った。しまった、と思いながら裕貴を見ると、すべてを察したようにニヤニヤと笑っていた。
「……な、なんだよ」
懸命に強気を装うが、裕貴の前では無駄だった。ポンポンと肩を叩かれ、しみじみとした口調で言われる。
「羽岡さんてさあ、なんで彼女できないんだろうね。こんなに優しいのに」
「やめろ。わざとらしい同情なんてするな」
恥ずかしいというより、情けなくて、啓太郎は急いで逃げ出そうとする。いまさらながら、俺は何をやっているんだと我に返ったのだ。
自分のメシの時間も潰してまで、わざわざ客で混雑している気取ったパン屋に行き、隣人の引きこもり青年のためにパンを買ってきてやったのだ。
しかも啓太郎自身は、そのパンをまったく味わっていない。
「一緒に食べない? 美味しいコーヒーぐらいサービスしてあげるよ」
「時間がねーよ。急いで会社に戻らないと」
「ふーん、それでも必死に、おれに焼きたてのパンを届けてくれたんだ」
慌ただしく通路を歩いていた啓太郎は、ピタリと足を止めて振り返る。ドアから顔を出した裕貴がひらひらと手を振っていた。
もちろん、手を振り返すような恥ずかしいマネは、死んでも啓太郎はしなかった。
裕貴の反応が妙にくすぐったくて、少しだけ嬉しかったのは確かだが。
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