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「何、母さん、こんな所まで呼び出して……僕今日忙しいって言ったじゃない」 「いいじゃないの~龍ちゃん。忙しいって言ったってどうせバイトの面接でしょう? バイトなんてしなくていいって言ってるんだから。お小遣い足りないんだったらもっとあげるし……あっ三味線持ってきた?」 僕は目の前の母さんを見上げて迷惑だとハッキリ顔に出して言った。彼女は意に介することなく的外れな事を口にする。 その時、向こうから長身のモデルが僕にぶつかってきて、何とか吐き捨てるように文句を言いながら早足に去って行った。痛いな、クソッ。 半裸の男女が忙しなく行きかう舞台裏。華やかなショーの裏側に渦巻く羨望と嫉妬、陰湿な企み。僕は辺りをザッと見渡して総毛だつとブルッと身体を震わせる。余りにも剥き出しの悪意と欲望に溢れているこの世界はどうしても好きになれない。というより、嫌いだった。 僕を産んでもショーモデルを続けている母さんはマイペースにカラカラと笑って僕を覗き込んだ。日本人は童顔に見られるし、白人から見るとエキゾチックに見えるから何とかすれば長く使って貰えて有利なのよ~。というのが母さんの口癖だ。母さんは僕より十センチ以上背が高い。ヒールを履いている今は見上げるほどだ。 母さんに念を押された通り、三味線を抱えて立ちすくんでいる僕は身長も百六十をちょっと超えたくらいで、顔立ちは純和風。母さんに言わせると死んだばあちゃんに似ているらしい。せっかく父親がフランス人の色男だっていうのに、まったくもって僕の遺伝子には生かされていない。もう諦めたからいいけど。 「違うよ、お金が欲しいんじゃないって言ってるのに、母さんは……」 『いいからいいから……まあっ! シニョーレ・アンドレオッツィ! 御機嫌よう!』 僕は邪魔にならないように小さくなって端に移動しながら、母さんに詰め寄る。母さんは僕の背後に視線をやってパッと顔を輝かせると、高いヒールの音をカッカッと響かせて叫びながら、そちらに走って行った。高いのはヒールの長さだけじゃない。最近母さんが気に入っている高級ブランドのそれは、三十万以上するはずだった。僕は馬鹿らしくなって視線を逸らすと、三味線を抱え直した。早く家に帰りたい。 『あー……と、シニョリーナ。次のショーの子かな?』 『あら、シニョーレ!あたしもぜひ次のショーのモデルに抜擢していただけたらと思いますわ。今お世話になっているのは夫のアベルの方ですの……次のコンセプトはここ、日本をモチーフになさると夫から聞いたものですから、お役に立てるかと思いまして』 母さんの声に反応するようにして、妙に色気のある低い声が響いた。何語か分からないが、少なくとも日本語じゃない。母さんは流暢に会話を続けていた。モデルという仕事柄から、語学の勉強を欠かさない母さんは英語、フランス語、イタリア語、それから中国語も会話には困らないと言っていた。僕はというと、会話できるのも理解できるのも日本語のみだ。同級生にはよく詐欺だと言われるが、知った事か。 『確かにそうだが……そこの彼は?』 『これはあたしの息子なんですの。ほら、龍ちゃん、ご挨拶して?』 我関せずを決め込んでいると、何事かを喋りながら母さんに引っ張られる。顔をあげると、ほとんど銀色になった黒髪を後ろに撫でつけた大男が立っていた。口と顎にも見事な髭を蓄えていて、身体つきはがっしりとしていた。服の上からも固い筋肉が盛り上がっているのが分かる。上から下までハイブランドの服をサラッと着こなしている彼は内側から湧き上がるような、自信に満ち溢れた笑みを口元に浮かべていた。 白人の年齢は良く分からないが、彫の深い顔に刻まれた美しい皺をみるところ、僕の両親よりは年上だろうと思った。 「どうも……」 『ほう、君……名前は?』 近くで聞くと更に低音の美声だった。不思議な言葉の響きが耳に心地よく腹に響く。彼の声は最上級の楽器を奏でているような魅力があった。何を言っているのかは分からないが。 母さんが僕の脇をつついてきて、名前よ、名前!と囁く。 「龍之介……瑞原 龍之介(みずはら りゅうのすけ)……」 『もー、龍ちゃんったら。もっと愛想良くしてよーう。アンドレオッツィさん、この子の三味線、次のショーの演出の一つにぴったりじゃないかしら? 御存じですか? 日本の伝統的な楽器ですの』 僕はムスッとしたまま名前を述べた。どうしてこんな危険そうな男に自己紹介しないといけないんだ。マフィアか何かじゃないのか。それくらい雰囲気が独特な男だった。母さんは焦れたように僕の肩を揺らしてから、彼と同じ言葉を操ってまた二人で会話を始めた。 『ああ、実際見たのは初めてだが……美しい形だ。聴かせて貰えるかい、龍之介?』 「……龍ちゃん、ちょっとここで三味線弾いてみてちょうだい?」 彼の大きな緑色の瞳が僕を捕らえ、じっと見つめられる。顎の髭を弄びながらデスクに軽く腰掛けた姿が実に様になっている。一体何なんだよ、この男! どうして僕が見世物にならないといけないんだ! 「何で? 母さんは僕に何をさせたいの? この人何だよ。父さんと母さんの仕事は僕には関係ないだろ!」 「龍之介、怒ってるか」 僕が思わず声を荒げて隣の母さんに言い募ると、デスクの方から深みのある声で名を呼ばれて、僕は弾かれたようにそちらを振り向いた。 それはニコニコと白い歯を見せて笑ったアンドレ何とかだった。ニコッと笑った目元の皺まで魅力的に見える。こいつ、いちいち身のこなしが優雅過ぎる。自分の見せ方を知っている人間のものだと思う。彼の様子は両親を見慣れている僕には馴染み深いものだった。モデルか何かなのか……? っていうかそれより、こいつ今日本語喋らなかった? 「……日本語、話せるんですか」 「少し、ね、勉強してる。私は日本が好きだ」 肩を竦めたアンドレ何とかが言葉を続けた。僕は毒気が抜かれてしまって、彼に向き直った。悪いのは母さんであって、この男ではないわけだし。少なくとも両親の仕事に関わっている男なんだろうから、あんまり失礼な態度をとってはいけないだろう。 「僕は英語もフランス語も話せません」 「アルテ(芸術)に言葉いらない。ムジカ(音楽)もモーダ(ファッション)も同じ」 取り敢えず、最初に断っておく。彼が何語を話しているのか分からなかったのだ。アンドレ何とかさんは日本語と母国語を混ぜて僕に語り掛けてくる。折角日本語で話しかけてくれているようだが、総じて結局何を言っているのか分からない。僕は母さんを振り返る。 「この人何言ってるの」 「龍ちゃんったら!アンドレオッツィさんはピラーティのトップデザイナーなのよ!もう三十年以上最前線を走り続けていらっしゃるのっ! 次のショーのアイディアが欲しいようだってパパが言ってらしたからあなたをお連れしたんじゃない。これはモデルとして、もの凄いチャンスなのよ!」 ピラーティとは最近母さんがご執心の超高級有名イタリアブランドだ。今履いているハイヒールもピラーティのものだった。でも、生憎僕には何の興味も沸かないものだった。靴は履き心地が良くて長持ちすればいいし、服だってチクチクしない綿製品が好きだ。着れればいい。 僕は冷めた目を母さんに向けると口を開いた。 「……僕、モデルなんてやる気ないし、出来ないよ。見ての通りチビだから」 「あなたは成長期なんだからこれから幾らでも伸びるって言ってるじゃないのぉ!あたしたちの息子なんだから!」 吐き捨てるように言うと、母さんが僕をギュウギュウ抱きしめて甲高い声で言った。愛されているのは分かってる。例えそれが彼女なりのものだとしても、少なくとも疎まれてはいない。 だけどーー。 僕は溜息をついて母さんの細い肩を軽く叩いた。 『どうやら龍之介は納得の上で来た訳ではなさそうだね、シニョーラ?』 『す、すみません、アンドレオッツィさん……!』 クスクスと含み笑いが聞こえてそちらに視線をやった。しまった、有名デザイナーのアンドレ何とかさんを放置してしまった。慌てふためいた母さんと言葉を交わす彼は、不快感を表すこともなく片方の口角を引き上げて微笑んでいた。その姿は美しい彫刻のようだった。同性ながらその恵まれた容姿に見惚れてしまう。 『いいよ、逆に新鮮だ。私の周りには、私に取り入るためならそれこそ何でもするような人間ばかりだからね?』 「あら……」 驚いたような、羞恥を抱いたような不思議な表情で顔を赤らめた母さんが彼の言葉でもって絶句した。何だ? 「龍之介、これ音、出す、私聴く」 次に僕を見た彼は、また白い歯を見せて笑って僕を手招きする。僕が眉を顰めていると、彼は僕の三味線を指さして身振り手振りを加えてぎこちない日本語を紡いだ。 『おーユリカじゃないか! どうしたんだ?』 「あっ、ミヒャエル! ごめん龍ちゃん、少し離れるわ。とにかくアンドレオッツィさんに好かれるようにしてちょうだい! 絶対に生意気言ったり逆らったりしないで! 彼に気に入られたらパパとママのお仕事も安泰なのよ」 その時、母さんの名前が呼ばれて、母さんはそちらへ注意を向けた。仕事仲間なのだろう、慌てた様子で早口に僕へ自分の主張だけを告げると、最後の方は小声で囁くように僕に耳打ちした。 『アンドレオッツィさん、少し打ち合わせがありますので龍之介をここに置いて行きます、どうぞ構ってやってください』 「ああ」 アンドレ何とかさんに何事かを挨拶した母さんは、仕事仲間の方へ急ぎ足で歩いて行った。僕は呆気にとられたまま母さんの後ろ姿とアンドレ何とかさんを交互に眺めた。何て自由気ままな人なんだ。今に始まったことじゃないけれど。僕は何度目か分からない溜息を飲み込んで、しっかりと目の前の男に向き直った。 「……アンドレ……オッツィ……さん?」 「ん?」 少し首を傾げて、遥か上から僕を見下ろすアンドレオッツィ氏。やはりデザイナーというよりもモデルといった方が納得がいくような気がする。垂れ目がちな綺麗な緑色の瞳が悪戯に輝いて、少し鷲鼻ぎみの高い鼻梁は美しく、すっと通った顎のラインは髭で隠されているのが惜しいほどだった。僕は自分の右手がある欲求に疼くのを苦労して押さえ込んでいた。 「忙しい、でしょ……僕のことはほっといてください」 「ほっとい、て……ください?」 僕は困ったように彼に告げた。何をどう話したらいいのか分からなかったからだ。彼はオウムのように、その美声で僕の言葉をたどたどしく繰り返した。どうやら意味が通じていないらしい。僕は迷ってからシンプルに伝える為の言葉を口にした。 「……仕事して」 「ハハハ! 龍之介、私、嫌いか」 意味が分かったらしく、予想外に朗らかな笑い声をあげたアンドレオッツィ氏は自分を指さして楽しそうに言った。 「……いえ……」 『可愛いな』 嫌いとか、好きとか、まだ感情がそんなレベルにまで辿り着いていないというのが正直な所だった。この色男は、僕みたいな素人に、初対面のお偉いさん相手に畏れ以上の何の感情を抱けというんだろう? ただ、彼にどうやってその気持ちを伝えたらいいのか分からず、僕は首を振って否定するのが精いっぱいだった。 困惑する僕をじっと眺めていたアンドレオッツィ氏は、ひと際低く、ゾッとするほど色気がある声で何かを呟くと、僕の手首をふいに掴む。 「えっ……あっ!……ッ?!」 ぐいと力任せに引き寄せられたかと思うと、後頭部を大きな手で掴まれて唇を塞がれた。一体何が起こったのか分からずに僕はただ目を見開いて、彼の湿った唇と柔らかく触れてくる口ひげを受け入れてしまった。 「……ん? 初めて?」 「何でっ……僕、男っ」 ハッと我に返って彼を突き飛ばすと、アンドレオッツィ氏は不思議そうに首を傾げた。僕は服の袖で口を拭いながら口走る。慌て過ぎてまともな言葉にならない。 「君が可愛いだから」 「やっ……だっ……んっ……」 独特の言葉遣いで喋ったアンドレオッツィ氏が、また笑顔で僕を引き寄せると今度は後ろから覆いかぶさるように抱きしめられた。また唇を塞がれて、今度はにゅるりと分厚い舌が無理やり忍び込んで来る。やけに大きく耳に響く淫らな水音と絡みつく濡れた舌と唇に、僕は完全に支配されていた。例え抵抗したとしても圧倒的な力に組み伏せられて身動きがとれないだろう。去り際の母さんの言葉も僕に本気の抵抗をさせまいと邪魔をする。 絶対に彼に逆らったりしないで。彼に気に入られればパパとママのお仕事は安泰なの! 「龍之介、ここ……」 「何でッ……僕っ……そんなんじゃっ……は、離してっ!」 迷っている間に、遠慮のない彼の大きな手が僕の股の間に這わされる。信じられないことに、僕の身体の中心のそれは硬くなっていた。アンドレオッツィは確かめるように何度か僕のそこを揉みしだいた。僕は堪らず身震いする。 「……あ、龍之介!」 カッとなった僕は無我夢中で彼の重苦しい身体を振り払い、後ろも振り向かずに全速力でその場から逃げ出した。僕の名を呼ぶアンドレオッツィの声が聞こえたが、僕にはそれに答えるだけの余裕は一ミリもなかった。
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