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家の前に停まった車の前に立っている名越刑事の笑顔を見て、僕は自分がまんまとおびき寄せられたのを悟った。
「どうも、酒巻さん」
「刑事さん……さっき言ったことは、どういうことなんです」
「これ以上の話は、車の中でさせていただくことになります。もっとも、警察車両内での会話は全て記録させていただきますが」
車の内部では、チェアが既に対面モードになっている。今日びほとんどの車は自動運転なので、運転者が常に前を向いていなくてもいい。必要に応じてチェアを対面に出来るのだ。
ただし、パトカーや覆面パトカーといった警察車両においては、対面モードになった場合は特別だ。中での会話や映像は全て記録されて警察内のサーバーに保存され、証拠として取り扱われる。俗に「走る取調室」と言われる所以だ。
名越刑事は、僕をこの車に乗せる為に、あんな中途半端な言葉を投げかけたのだ。
「嘘だったんですか? 僕をおびき寄せる為の」
「いえ、本当ですよ。それ以上のことを知りたいのでしたら……」
刑事は僕を車のドアへといざなった。僕は観念して、車に乗り込んだ。
「まだ信じられませんよ、町田さんが字を書けなかったなんて。読み書きなんて、小学校で習うことでしょう」
「ところが、このご時世、字が書けなくてもさほど困らないんですよ」
狭い車の中で、刑事は僕と対峙していた。愛嬌のある笑顔を崩さないままで。
「学校ではタブレットが主流、書類の類もオンライン上で何とかなるのがほとんど。実際に文字を書くようなことがあっても、お金を出せば代わりにやってくれる人も見つかる。──あなたのように」
名越刑事は僕を指さした。
「町田さんはこのことを家族や特別親しい者にしか言っていませんでしたから、あなたを始めとした皆さんが知らないのも無理はありません。それでも複数の証言が得られましたよ。町田さんは字が書けない。書こうとしても、何だかわからない線の塊になってしまう。そんな人が、咄嗟に『渡』なんて複雑な字を書けるわけがない」
姑息な工作は、根底から崩れてしまった。なんてことだ。
「配達用ドローンを持つには、配送業者としてのライセンスが必要だ。配送業者であれば、漏れなく法人認識IDがついて来る。……血で残した文字なんて、手紙を書くあなたらしい発想ですが、それが仇となりましたな」
「……それで、僕を?」
「いえ、決め手はこれです」
名越刑事が端末のディスプレイに表示させたのは、小さい糸くずのようなものだった。
「被害者の爪の間から検出されました。鑑識によると、紙の繊維の一部だそうです。……あなたの使っている便箋はオリジナルの特別な紙だ、照合すれば同じものかどうかわかります」
この刑事が僕の机で便箋を触っていたのを思い出す。もしかすると、あの時一枚くらいこっそりしまい込んでいるのかも知れない。
僕は目をつぶり、深く息をついた。
「……手紙作家だなんだともてはやされてますが、僕の懐は火の車でしてね」
刑事はうなずいた。
「今は珍しい文房具をあれだけ揃えているんだ、お金もかかることでしょう」
使われなくなった道具は、当然の如く値段が上がる。文房具は消耗品なので、なくなればまた買わなければならない。特注の便箋も、こだわればこだわるほど値が張る。しかし、依頼主と面談までして気持ちを伝える手書きの手紙は、量産は出来ない。赤字は続いていた。
「だから、僕は町田さんに追加の融資……いえ、借金の申し込みに行ったんです。──僕の渾身の手紙を持って」
手紙には僕の手紙への情熱を綴り、最後に融資のお願いを付け加えた。読んでくれさえすれば、心を動かすことは出来ると信じていた。
しかし。
町田は、手紙をちらりと一瞥しただけで言ったのだ。
──これは、私には意味のないものです。
何を言っているんだ。読みもしていないのに。
──酒巻さん、あなたからこんなものを受け取ることになろうとは、非常に残念です。
そう言って、町田は手紙をビリビリと破り捨てた。まるで憎んですらいるように、執拗に。僕の手紙だった紙吹雪が舞い落ちるのを見て、僕はあの男を開封用のハサミで刺し殺した。僕の心が踏みにじられた気がして、許せなかった。
破られた手紙を回収するために、掃除用ロボットを使った。紙の欠片でも残っていれば、僕がいたことがバレてしまう。紙切れを全部吸い込んだ機械を抱えて歩くのは目立つので、遠隔操作で呼び寄せた自分のドローンで自宅まで運んだ。中のゴミを捨てて、いずれ処分するつもりだった。
そして、以前から町田に金をせびって疎まれていた渡辺に容疑を向けさせようと血文字を書いたのだが、それは完全に余計なことだった。
「なるほど、それは──不幸なすれ違いですな」
刑事の言い方に、何となく引っかかるものを感じた。僕の不審そうな表情を読んだように、刑事は語り始めた。
「先程、町田さんが字が書けないと言いましたが、それには原因がありましてね。……被害者は識字障害だったんですよ」
識字障害……だって?
「ディスレクシア。文字を文字として認識出来ない障害です。識字障害者用の特殊なフォントであれば何とか読めたそうですが、手書きになるとほぼ読めなかったそうです。フォントを変えられるタブレットテキストや読み上げソフトによって学校の授業は受けられ、成績も良かったそうですが、文字を読んだり書いたりすることは苦手だった」
そんな……それでは僕のしたことは、町田の言った通り、全く意味のないことだったのか。読めば心が伝えられる自信はあった。でも、読めない相手には。
「そうでもないんじゃないですかね」
名越刑事はお気楽な口調で言った。
「町田さんは、自分が字が書けない分、あなたの仕事にかなりの憧れを感じていたようです。だからあなたへ融資もした」
「では、なんで町田はあんなことを……」
自分への手紙を破き捨てるなんてことを。
「町田さんという人は、かなり勘の鋭い人だったそうです。だから読み書きが出来なくても学校の成績は良かったし、商売でも成功出来た。──だから、読めないながらも感じ取ってしまったんじゃないですかね……あなたの手紙に、真に込められたものを」
僕を見つめる名越刑事の目は笑っていない。思えば、にこやかな笑顔を作ってはいても、彼の目は最初から笑ってはいなかった。
「そう──渡辺などと同じ、『金が欲しい』という何よりも俗な感情をね。手紙というものに憧れを感じていた町田さんは、それで大いに失望してしまったんですよ」
ああ……そうか。美辞麗句を重ねてみても、結局は僕の言いたいことはそれだった。字を読めない町田にも、ちゃんと伝わっていたんだ。
もしかすると、僕の手紙の究極の読み手は町田だったのかも知れない。町田は町田なりに僕の手紙を愛していたからこそ、自分から金を引き出すために書かれた手紙なんていうものの存在が我慢ならなかったのだろう。
車はいつの間にか警察署の前まで来ていた。名越刑事は、車内の記録を「自供」カテゴリに登録した。
僕は、何となく晴れ晴れとした気持ちで、名越刑事と共に警察署の中に入って行った。
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