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配管の張り巡らされた廊下は森閑としている様で、しかし管の中を絶えず流れる水の気配に満ちていた。そんな中を黒い箱と少女が黙々と行く。元々移動の遅い箱だが、今は少女の歩行に速度を合わしている。少女は未だ湿っぽいレインブーツの爪先を冷たく感じながら、この角張った案内人に附いて行った。
丁字路に着く。箱が左に折れれば少女も其方へ。暫く歩くと右の壁が唐突に途切れ、その切れ間から大掛かりな機械が現れた。
それは斜面に敷かれたレールがケーブルカーを思わせる昇降機だった。
廊下をもう少し行けば階段もあるらしい。が、案内役の黒箱は迷わず昇降機に乗り込んだ。少女もその横に立つ。銀色の台に柵の付いた、簡素で、故に頑丈そうな昇降機は大きく、少女と箱が真ん中に立つと、持ち前の面積がより際立った。
廊下と昇降機との隙間が徐々に広がっていく。少女と箱を乗せた台は、揺れる事なく、甚だ静かに、淡泊な壁に囲われた坂道を、レールを伝って昇って行く。
やがて上の階に着けば、リフトは音も立てずに停止、合わせて鉄製の枝折り戸が開く。と、箱は車輪を回し、少女も跡を追って台を降りて広い廊下に入った。
見通しの利く廊下は、蛍光灯の、冷え冷えとした、科学的な光に疎らに灯されている。淡黄色の壁に配管は見出せず、代わりに扉が多い。
リフトを降りた左脇には暗い階段の出入口が空いていた。その奥の影に男女のマークが見える。トイレが潜んでいるらしい。その暗がりを少女がぼんやり眺めている間に、箱の車輪の動く音を聞き、顔を反対へ向ければ、黒い箱は右の暗がりに入り込むトコロだった。
扉の倒れたその部屋は、照明が点かないのか、それとも疾うに失われているのか、廊下の灯りが僅かに差し込むばかりで、中の様子はまるで判らない。が、箱は暗闇の中で何かしているらしかった。
少女は部屋の前に佇み、中には入らず、暗闇を透かして室内を眺めた。闇中に大きなものがそびえている。それは堆く積もり積もった黒い塊、塵の山。箱はその山の麓にてガチャガチャと雑多な音を立てている。そうして作業を終えると、明るい廊下の方へ戻って来た。部屋の前で箱とすれ違う。少女は視線を室内に戻した。薄闇に輪郭が浮かんでいるばかりだけれど、打ち捨てられたキューブと機械の手が見える。更に注視すれば、部屋の中央にそびえる黒山も、残骸と化した機械の部品だけで構成されている事が判る。
奇妙な光景だった。が、壊れた物を此処に集める意味など一考もしない。もっと妙な物が少女の瞳を捉えている。
塵山の陰で何か動いた。細長い足をくの字に曲げた、流線型の胴体をもつ蟹の様な物が、此方をじっと見ている。
あの蟹には機械の手がある。なら、あれはきっと、裏方さんね。
頭の中でそう呟くと、少女は部屋の前から離れた。
と言っても行き先にアテがある訳はなく、キューブは元より、此処には電灯の合図もない。箱も独りでリフトに乗って何処かへ行ってしまった。下へ戻ったのかしら。一人切り、取り残される。取り立てて方針もなく、真っ直ぐ延びた廊下をぼんやり歩く。
その途中の事。三度十字路に差し掛かった際、少女は片隅に微かな音を聞いた。
微かな……ほんの小さな音。少女はふと、音のする左側を見やった。其方の突き当たりに扉がある。嵌め殺しの磨り硝子に蜘蛛の巣状の皹が入ったその扉には、「中央管理室」の表札が出ている。
無意識下、少女の足は自然と扉の前へ向かった。ケープの内から右手を差し出し、ドアノブを掴んで回す。と、鍵は掛かっておらず、扉は容易に引き開いた。
入ってみれば其処は半円形の一等大きな部屋で、且つ奥は分厚い硝子に因って間仕切りされていた。
仕切りの手前には事務机や椅子が放置されている。埃を被った机上ではファイルケースや固定端末、コンピューター、書類の束が無秩序を奏でていて、無音無動ながら騒がしい。床に迄及んだ紙の雪崩、足下に散らばる書類の表面で夥しい量の記号やアルファベットが黒い隊列を組んでいる。視線を上げ、壁際のホワイトボードを見れば、幾つか図が描かれていて、黒い箱や機械の蟹の絵も残っていた。
それから……散乱する書類を踏んで奥へ向かう……水槽の硝子に似た仕切りの前に来ると、少女はその表面にそっと触れた。
硝子の向こうには大きな球体が据えられている。
上下に数本のケーブルが連結された水色の球体。その真ん中には切れ込みが入っている。地球儀に引かれた赤道の様な切れ込みの、其処に刻まれた白い文字を見つめる。
“FOMI-AR-F03”
確かにそう刻まれた文字の隣で黄色と赤い洋燈が瞬いていた。
球体の中から、ジ、ジッ、と、引っ掛かる様な異音が聞こえる。その音が少女の触れる仕切りを僅かに震わせていた。
そんな硝子の手前に、机が一つ、据えてある。机上はモニターと電紙プリンターだけ、他の物より遙かに片付いている。そのプリンターが吐き出したらしい電紙を少女は眺めた。見出しに「緊急時日誌控え」と表示された続きを瞳で追う。
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