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外の日射は相変わらず、しかし建物の数と共に増えた影に遮られる。道も段々細くなり、終に路地となって、集合住宅の密度に息苦しくなる。密閉感。青空が小さい。雑草も疎らな硬い地面に、カツン、カツン、サンダルの踵が高く鳴る。
路地を切り取る五階建てのマンション。あのマンションは、暮らしの記憶を未だ保っているのか、見ただけでは判然としない。が、確かめようとは思わない。廊下側の窓には目隠しの木板が打ち付けてある。苔でも生えているのか、板の群れは一様に緑色に沁みている。ベランダは今迄見て来たものと同じ、朽ちた窓枠の山は、まるでお揃い、無数に広がる四角い穴は建物の骨格にも見えた。
視線を下げ、建物の基礎には、無意味な階段が取り付けてあった。石組みの基礎の側面を這う様に伝う階段は、何処にも繋がらず、途中で壁にぶつかって途切れている。行き止まりの階段は、中途半端な儘、イラクサの葉に埋もれている。
そんな様子をぼんやり眺めていた彼女の足が、ピタリと止まった。行き過ぎたかも知れない、そう思ったからだ。
倒れた木製電柱や、崩れたコンクリート片、剥がれ落ちた煉瓦の散らばる路地を抜け、三角型の広場に立つ。その広場の先には防波堤がある。
此処はもう西の端。目的地は北なのに。
蟻の巣みたいな路地の複雑さに立ち尽くす。
辺りを見回す。と、右の袋小路にささやかな木立を見付けた。行き詰まった路地奥に茂る黄緑。涼しそうなその色合いに、つい、足が向きそうになる。
けど是以上迷いたくない。
出来るだけ大きな通りを見付けて、北へ行かないと。そう考えて、広場を西に抜け、右に折れる目抜き通りらしき道に入った。
が、少女は再び立ち止まった。
又だ。左右をマンションに挟まれた目抜き通りは、全く廃材に埋もれていた。広い道一杯に積もった廃材の中には、よくよく見れば、辛うじて障子の形を保っている物もある。ベランダから落下したのだろう。障子や窓枠、欄干の残骸達に、又道を阻まれる。
それなら……外の通りがダメなら、建物の中を通るだけ。
少女は動ずる事なく、真っ直ぐ歩を進めた。枯れ蔦と雑草の絡み合う叢を、ガサガサ、ガサガサと、かき分けて行く。
叢を抜ければ、建物の玄関口に立っていた。
ワンピースに付いた葉っぱを払い落としながら、瞳を凝らす。此処は元々、コンクリートと木材が共生する空間だった筈。今はそのどちらも死んでいる。
床、壁、天井のコンクリートも、それに寄り添う戸口や柱、窓枠の木材も、同じ四角形。温度と硬度の差。冷たく硬い灰色の箱の中に、温かく柔らかな木の建物が収まっている。
鉄筋も露わな壁に、ボロボロになった木の窓が取り付けてある。その格子に嵌められた曇り硝子が日射しを曖昧にする。彼女はその光の中にいて、無表情が室内に薄く浮き上がった。夢の様に佇みながら、現実の足を動かし、スカートの裾を揺らしながら一階を横切って行く。
廊下の入口らしい、古く、上半分がスッカリ崩れた引き戸は、既に開いていた。敷居を跨げば、其処は長い長い廊下。何処に繋がっているのか、何処迄続いているのか、灰色の廊下は果てが見えない。床に転がる廃品を避けつつ歩く。
割れた硝子から差し込む光は金色、壁や床の近くでは少し茶色っぽくなる。斜めに差し込む西日に廊下は照らされて、時折、ワンピースの朱色と黒髪、白い肌が鮮やかに輝く。
その時、冷たい風が、サッと、彼女の頬を撫でた。瞳の醒める思いで少女は視線を外へ投げた。枝葉の騒ぐ涼しい音がする。長い廊下の真ん中で、窓に近付く。黄緑色の西日が差し込む窓辺へ。
窓からは中庭が見えた。マンションとマンションの間にある細い中庭。
上を見ればマンションが左右に建っている。コンクリートの間仕切りに箱詰めされた木造長屋が、ズラリ、マス目状に並んでいる。一体どれだけの部屋があるのか、数える気にはならない。
そんなマンションの合間にある中庭には、背の高い木々が林立していた。
サァサァと、枝葉がそよぐ。木々は地にしっかりと根を張り、石段を緑の天井でスッカリ覆い、細長い空間が狭苦しいのか、彼方此方に枝を拡げていた。二階の窓に枝先を差し込み、三階のベランダに葉っぱを被せ、五階の部屋から若木を生やし、屋上から枝葉を垂らしている。
少女は窓枠に頬杖を突きながら、瓦礫と木立の中庭を仰いでいた。窓辺にもたれる彼女の着るワンピースの朱色が、緑の中でよく目立つ。まるで彼女自身が地に落ちた赤い果実の様だった。
又風が吹いた。髪がなびく。少女は暫くぼんやりと木々を眺めていた。灰色のガラクタと成り果てた建物に囲まれた葉っぱの瑞々しさ。この中庭もいずれ森になる。
彼女は頬杖を解き、窓辺を離れた。
長い廊下を急がず、ゆっくり、サンダルを鳴らして歩く。一階廊下の突き当たりは直角に右へ折れた。その角を覗く。案の定、曲がった廊下の先は木々と廃材に埋もれていた。
突き当たりの奥には階段がある。一階は諦め、その階段を上がって二階へ。
少女は顔だけを廊下に出し、二階の様子を確かめた……廊下の奥に光を見る。其処から風も流れ込んでいる。その出口を目指す為、彼女は二階廊下を進んだ。
この片廊下の左側には、古風な長屋を思わせる小部屋が並んでいた。
玄関らしい入口にて木戸が倒れている。その向こうは土間になっていて、上がり框を越えると畳敷きの部屋、それからベランダへと続く。廊下に並ぶ部屋はどれもこの造りだった。
けれど、部屋の中に散らばっている物はそれぞれ違った。
此処に住んでいた人々の個性だけが残っている。上がり框に置かれた「みかん」と記された段ボール箱、土間に置かれた石臼、ベランダに立て掛けられた洗濯板。風に捲られる畳の上の原色版雑誌……少女はゆっくり廊下を行く……土間の上で壊れた柱時計、その傍で倒れたミシン、足の折れたちゃぶ台、引き出しのない箪笥、雑草の生えた畳、ベビーベッドの傍にはガラガラや人形が沢山……。
それらを次々と見送る。あれら、暮らしの道具達が、この建物の彩りだった時もあった筈。今はもうスッカリ古びて、皆一様に茶色く汚れ、或いは錆びている。
ようやく廊下の終点、即ち出口に着いた時、少女はその手前で顔を窓の方へ向け、外を見た。中庭を介した向こうにも、全く造りの同じマンションが見える。部屋の構造も同じ。どの窓も木戸も壊れているから、その更に向こうのマンションも見通せる。同じ造りの部屋が連続する光景は、合わせ鏡、無限遠方の光景に、囚われる事もなく、彼女は建物の外へ出た。
久し振りの直射日光に瞳を細める。出口はその儘外階段に繋がっていた。か細く頼りない石段は、建物の隙間を蛇行していて、行き先は見通せなかった。
それでもこの階段が上に向かっている事は間違いない。高い所から見渡せば、目的地への行き方もある程度見当が付く筈。
石段を上がって行く。
こんな所にも植物は逞しく息づいている。日の当たる場所を逃さず、雑草達はこぞって背を伸ばす。石段の隅は勿論、石組みの壁や、建物の硬い壁を走る亀裂にも根を張り、葉を茂らせている。日当たりの良い場所などは、雑草の勢いが物凄く、進むのも一苦労だった。
上がる度に横幅の変わる石段。二人がすれ違うのも難しそうな狭い場所もある。そんな場所は四方を建物に圧迫され、薄暗い。建物の陰になっている。日向から日陰に入る時には空気の層を感じる。急に気温が下がった所為かも知れない。日陰には植物もなく、茶色く汚れた壁と枯葉ばかりの寂しい場所。其処を朱色のワンピースが通り抜ける。
薄暗い石段が左に折れ、その先を彼女は見据えた。
其処にある日向が、俄に明度を失うトコロを、確かにハッキリ見た。
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