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ワインと手紙
誰にだってあるだろう。
心に沈めていても、なにかのきっかけで輪郭が露わになる思い出が。
私もそんなものを抱えている。
忘れたい過去ではなかった。
しかし三十代の私にとって、あまりにも甘く遠い昔のことだった。
あのまま彼に身を任せていたら、私は東京でいっぱしの作家になることはなかっただろう。
彼と交わした言葉。
私の唇と指先が味わった、彼の熱。
彼が友人には決して見せない、男の顔。
そして、彼が一方的に私に押しつけたメッセージ。
彼と別れて十年余りが過ぎた。
腕時計が秒針を刻むごとに、彼と過ごした夜は切ない記憶へと昇華していった。
青春を捨てなくてはいけない年頃の男ふたりが、浮かれて道を外れそうになった、ひと夜の出来事。
そう思い、ひとりで生きていけばよかった。
彼――沢木真昼から手紙が届くまでは。
――――――――――
植野旭さま
きみへ手紙を書くのは二通目か。
……いや、あんな走り書きは手紙とはいえないかもしれない。
僕はきみと別れてから、随分と欲張りになってしまった。
親父から継いだワイン畑を広げることはさすがにしなかったが、敷地にレストランをオープンさせた。きみは東京で美味いものを食べているんだろう? その鍛えた味覚で、僕のレストランが通用するか確かめてほしい。
……というのは、この手紙を書くための都合の用件だ。
あの夜のことを、僕は忘れていない。
きみもそうなら、僕が造ったこのワインを持ってホテルまで来てほしい。いま、仕事のために東京に来ている。
『ソル・レヴェンテ』
このワインは、イタリア語で『朝日』という名前だ。
植野。僕は欲張りになってしまったんだ。
きみに会いたい。
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