109人が本棚に入れています
本棚に追加
第二章-1
お茶会から数日が経った。
ここ最近、ネラシュ村の屋敷では静かな生活が続いていた。
朝遅く、アンナはベッドから身を起こす。春の柔らかな陽光が窓の鎧戸から差しこみ、部屋の中をぬくめている。
この時間帯、部屋には誰も入ってこない。みんなには「朝は寝るから部屋に入ってこないでほしい」と言ってある。唯一、朝早い時間に誰か一人が朝食を持ってくるが、朝食を運ぶのは使用人の仕事なので、その仕事を取り上げるわけにいかない。だから咎めない。
つまり、朝の間は誰にも邪魔されず、のんべんだらりと小説がかけるということだ。
アンナはドレッサーに向かった。机は日が当たって眩しいので、直接日光のささないドレッサーで書くのだ。アンナにとっては、ドレッサーも立派な机だ。
引き出しから赤い鍵付きの箱を取りだし、ポケットの鍵で蓋を開ける。中身は素朴な見た目のネックレスばかりだが、底の板を外すと紙の束──小説が出てくる。
ドレッサーに置いた原稿を見下ろし、アンナの口元に笑みが浮かぶ。
(さーて、どうしようかな?)
今書いているのは、人に化けたイタズラ妖精が起こす騒動のお話だ。アンナの心の中では、妖精が飛び跳ね、人々が驚き怒り笑っている。その姿を情景を、ひたすら紙に書き連ねていく。
やがてアンナの意識は狭い部屋を離れ、紙の中に広がる空想へ入る。アンナはどこかの城の厨房にいた。目の前では、背丈がアンナの膝くらいの妖精が、調味料の中身をしっちゃかめっちゃかにしている。そこに足音が聞こえ、妖精は慌てて隠れた。ドアを開けて料理人が入ってくる。彼は何にも知らずに料理を作り、味見をしてびっくり仰天。その様子を見て思わず笑う妖精。しかし、笑い声を聞いた料理人が妖精を見つける。そこから始まる、城中の人間を巻き込んだ賑やかな追いかけっこ。アンナもその騒ぎに仲間入りする。楽しくて楽しくて仕方がない。
しかし、創造の時間は外から聞こえる鐘の音で終わる。丘のふもとの村にある、正午を告げる鐘だ。空想の世界から帰ってきたアンナは名残惜しげにため息をつくと、手早く原稿をまとめて箱に戻し、鍵をかけた。鵞ペンとインク壺は日の当たる机の引き出しに戻しておく。鍵はポケットではなく、靴の中だ。これで肌身離さず持っておける。
そしてすっかり冷えた朝食のパンをそしらぬ顔で食べていると、コンコンというノック音がした。
「失礼します」
着替えを持ったマオが入ってくる。マオはアンナが朝食を食べ終えるのを待ち、その後アンナを寝巻きから普段着に着替えさせる。お茶会のドレスならまだしも、普段着は自力で着られるくらい簡素なので、使用人は必要ない。しかし主人の着替えも使用人の仕事なので、アンナは何も言わずに彼らに任せる。
着替え終えたアンナは、部屋を出て階下に下りた。東の日の当たる部屋では、レオが書類を書いていた。アンナが入ってくるのを見ると、手を止めて顔を上げた。
「こんにちは、奥方様」
相変わらず、レオも無感情な喋り方をする。
「何を書いてるの?」
「次回来る荷馬車に渡す注文書です」
「何を注文するの?」
アンナは彼の肩越しに書類を覗きこんだ。粥に使う麦、パン、野苺や牛乳といった食糧が書きこまれている。
「もし何かご入用でしたら、どうぞおっしゃってください」
「特にないかな。それよりも外に出たい」
「申し訳ございません。外出は安全が確保できないため、どうかお控えください」
にべもなく断られた。この頼みは昨日も一昨日もしたのだが、返事はいつも同じだ。
ちょうどその時、洗濯物を抱えたミアが通りかかる。
「あ、ミア。何か必要なものはある?」
「え? そうですね……あ、そうだ、庭を綺麗にしたいから、花の種とか欲しいんです」
「分かりました。頼んでおきます」
レオは難しい顔で帳簿と睨めっこしている。邪魔するのも悪いので、アンナはその場を離れた。ミアも、勝手口から外へ出ていく。
台所から良い臭いがする。行ってみると、レースがかまどで菓子を焼いていた。アンナは目を輝かせる。
「美味しそうだね」
「ええ。蜂蜜とバターがあったので作ってみました。もう少しでできますよ」
口の中に唾が溢れる。間違ってもこぼれたりしないよう、アンナは唇を引き締めた。
その時突然、遠くから甲高い声が聞こえた。続いて、誰かが廊下を走る足音。遅れて玄関のドアの開閉音がした。
「何だろう?」
「さあ……」
アンナとレースは顔を見合わせた後、玄関へ向かった。ドアをゆっくり開け、外の様子を伺う。
「どうかお引き取りください」
「いや!」
正門に豪奢な作りの四頭馬車が停まっている。馬車の前で、マオと小さな女の子が言い争いをしている。
アンナは自分の目を疑った。彼女は、つい最近会った。
(なぜあの子がここにいる?)
マオはいつもの冷淡なスタイルで彼女を止めようとする。
「屋敷には誰もいれるな、と仰せつかっております」
「私は姫よ! あんたよりずっと偉いの! 邪魔をするな!」
「たとえ姫であっても、ここから先に行かせることはできません」
彼女の目がアンナと会う。彼女は「あー!」と叫び、マオを押しのけて、玄関へ走ってきた。
「私ね、あんたに会いにきたの。あんたのドレスが欲しいのよ。色とりどりの、白と黒じゃないきれいなドレス。私にちょうだい」
貰えることが当たり前、という口ぶりと態度。欲しいものを手に入れるまでは帰りそうもない。
最初のコメントを投稿しよう!