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第一章-4
緑の牧場が広がる中、茶色い道はうねうねと続く。道はずっと遠くに見える、灰色の城壁まで続いている。
「マオ、エシューってどんな所なの?」
マオはカラクリ人形のように唇を少しだけ動かす。
「王が住まわれている都市です」
「えーと、そうじゃなくて、町にはどんな人が住んでるの? 名所や名物は? 本屋は?」
「商人や職人が多く住んでいます。名所は知りません。名物は羊の串焼きが美味しいと聞きます。本屋はありません」
「本屋が無い?」
本が持ち込めないと聞いた時点から、この国の本事情は厳しいだろうと予想していたが、
(まさか本屋そのものがないの?)
驚くアンナをよそに、マオは淡々と話を続ける。
「この国では、本は神殿で売られています。神殿以外で本を売買することは固く禁じられています」
アンナは自分の耳を疑った。
故郷やその周りの国では、書物の産業が盛んだ。製紙法が伝わったこと、そして約二十年前、活版印刷という技術が生まれたからである。活版印刷は、巨大な機械──印刷機が紙に文字を書く。印刷機のおかげで、本を一度にたくさん作れるようになった。一握りの貴族と神殿が写本をひっそり受け継いでいく、という時代は終わったのである。
そう、終わった。なのに、この国には本屋が無い。
「書いた本を売りたい場合はどうするの?」
アンナは平静を装って尋ねる。
「原稿を神殿に渡し、審査を受けてもらいます。審査に通れば印刷されます。通らない場合は印刷されませんし、内容によっては、著者は拘束されます」
マジかよ、と心の中で呟く。
市場に本が出回るこの時代に、人々の思想を完全に統制することは難しい。もしやろうと思えば膨大な労力が必要になる。
(何とまあバカバカしいことを)
アンナは呆れる。
「さてお茶会ですが、今回はそれほど時間がかからないと伺っています。夕方には帰ることができるでしょう」
マオはもう終わりと言わんばかりに話を打ち切った。
太陽がだいぶ高い所まで昇った頃、一行は城門に着いた。御者が詰所の兵士に通行証を見せ、門をくぐる。
静かな緑の景色から一転、喧騒がアンナ達を出迎える。
石畳の大通り。その両脇に軒を連ねる露店に、そびえ立つ赤レンガの家々。人々の喧騒が気分を盛りあげる。品物は故郷にはない物ばかりだ。馬車から飛び降りて、一つ一つ手にとってみたくなる。
一方、店と店を行き交う人々に目を向ければ、一際目を引く存在がいる。それは故郷でも見た人々──つまり、白黒の長衣を着た神官たちだ。普通の神官と、神官兵と呼ばれる、武装した神官の二種類がいる。店主と雑談している者もいれば、通りに立ち、目を光らせている者もいる。
(どういうこと? 町の治安維持は神殿がやることじゃないのに)
訝しむアンナ。しかしそこに、馬車の中に香ばしい匂いが入ってきて、思考は遮られた。
四辻の角に小さな人だかりができている。人と人の隙間から見えたのは、赤々と輝く炭火と肉の塊。あれが羊の串焼きなのだろう。アンナは唾をごくりと飲みこむ。けれども馬車は無情にも遠ざかっていく。
通りの景色は露店から貴族の邸宅へ変わっていく。そして、巨大な門の前に到着した。マオが言う。
「エシュー宮殿に到着いたしました」
瀟洒な制服を身にまとった衛兵が門を開ける。一同は馬車の前側の窓に顔をむけ、宮殿をよくよく見ようと目に意識を集中した。
しかし見れなかった。彼らの目を真っ白な光が射抜いたからである。一同は呻き声をあげて目を覆い、時間をかけてそろそろとまぶたを開く。
新雪のように真っ白な、大理石の城だ。横に長く、右を見ても左を見ても終わりがない。巨大なアーチ状の扉の前には、昼の神ヨラの彫像と、彫像のように動かない四人の使用人が立っている。建物の周りは白と黒のタイルが大きな螺旋模様を描くようにして敷き詰められている。
白はシラ神の色、黒はヨラ神の色。螺旋は調和。神殿でよく見るモチーフが、この城にも使われている。城はかつて神殿だったのだろうか? しかし、見た感じタイルも壁も、それほど古くは見えない。
馬車は扉の前で止まった。ドアが開かれ、アンナ達は降りた。マオは扉の前の使用人と一言二言話す。
「奥方様、こちらへどうぞ」
マオはすたすたと早足で扉の中へ入っていく。遠ざかる背中をアンナは慌てて追う。
宮殿の中も、白と黒で統一されている。右半分が白、左半分が黒。壁には神話の場面を描いた絵画や彫像がこれでもかと言わんばかりに、一分の隙間もなく飾られている。無数の神の目が人々を見ている。
(宮殿というか、神殿というか、邪教の寺院っぽいというか)
やがて、白黒の小部屋に通された。一脚の長椅子と一台の丸テーブルと二十柱の神の像があるだけの部屋だ。ここでお待ちくださいとマオは言い、扉の奥へ消えた。
一人きりになったアンナは大きなため息をつく。
(目がカチカチする部屋だなあ)
白、黒、白、黒。無数のタイルが交互に並べられている。しかし壁に顔を近づけて見れば、ある白いタイルの端は、黒いしぶきのような模様ががある。別の黒いタイルには白い点がぽつぽつと落ちている。
もしやと思い、アンナは爪でタイルを引っ掻いた。表面は容易に剥がれ、中から見えたのは砂色だった。他のタイルも引っ掻いてみる。中身は全部同じ、砂色だ。
(まさか、後から全部塗ったの?)
気の遠くなるような作業だ。色のはみ出しなど、端々に見える雑な仕事ぶりに、作業員の苛立ちがうかがわれる。
(ホントどうなってるの、この城は?)
神の偶像であふれた城。道端に立つ神官兵。本の検閲。
これだけ分かりやすいヒントがあれば、もう十分だ。この国は表向き王政であるが、実際は神殿に支配されている。それも、とても歪んだ形で。
(そしてこの事を、お父様やジェードは私に伝えなかった)
本の検閲や売買の禁止も辛いが、アンナにはこちらの方がショックだった。
嫌われていたことは分かっていた。今まで髪を切ったり本を読んだり、好き勝手やってきたのだから当然だ。しかし、いざこうしてその憎悪をこの身で実感すると、胸底に氷を投げこまれた気分になる。
ドアがノックされ、マオが入ってくる。お待たせしましたお連れします、と台本を読みあげるかのように言う。アンナはひしゃげた心を無理矢理立てなおし、長椅子から立ちあがった。
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