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座っているノルベルトの前に立つと、ミノウのほうが目線が高い。
じっくりと見下ろされる視線に、ノルベルトは横に積まれた本の背表紙に目をやることで直撃を避けた。
「あー、いや……まだ整えなければいけない書類もあるし、また明日にしよう」
「フロレンツ様からの件は片付いたはずでは?」
想像した通りの答えに、ミノウがあっさりと退くはずはなかった。ずいっと前に出ると、目をすがめて主の前に仁王立ちになる。
「昨日も、一昨日も、その前もそう仰いました。今日こそ召し上がっていただかなくては」
無論、ミノウとて黙って主の不摂生を看過してきたわけではない。朝は滑らかに裏ごしされた繊細な野菜のスープと焼きたてのパンを。昼と夜食にはそれぞれ、研究の合間にも片手でつまみやすいようにと主の習性をよく踏まえた軽食を準備させている。
そんなことはミノウは知っている。知っていて、言っている。
「人間の食物で腹が膨れたとしても、吸血鬼の糧はそれとは別の物です。いつぞやのように倒れられては、お世話させて頂く我々が困ります」
「ああ、わかった、わかったよ」
腰に手を当てて主に詰め寄る迫力に負けたのか、ノルベルトは降参するように手をあげた。ソファから立ち上がろうする彼をミノウは押し留めて向きを変えさせる。
「毎度繰り返すくらいなら早く済ませればいいのです」
自分は床に膝をつき、座る主の膝の間に体を入れて見上げると、眉を下げた情けない顔が正面にあった。食事の前のノルベルトはいつもこんな表情をする。
「吸血鬼としての性だから仕方ないとは思うが、やはり好きにはなれないのだ……」
「その御年になって好き嫌いを言うのはいかがなものかと思いますが」
「……お前の血が嫌いなわけではないよ」
わざと呆れた声で言ってやれば、言葉ばかりの弁明が聞こえてきたが、ミノウはまともに取り合わなかった。
「それはそうでしょうとも。私の主なのですから、そうであるはずがありません」
ノルベルトの前に跪いたまま、首もとを解く。
プツッという音とともにシャツの拘束が弱くなり、そこから手で襟を大きく開くように寛げた。吸血鬼の種に負けず劣らず白いミノウの肌が露になる。
「……さあ」
首を反対側に少し傾げて目の前に差し出すと、ごくり、と喉をならすのが聞こえてくる。
ノルベルトが食事を摂ったのは、四日前だ。もはや絶食状態に近く、普通の吸血鬼ならとっくに音をあげているだろう。そもそも苗が側にいる吸血鬼がそれほど食事を我慢する必要はないのだが。
ミノウのうなじと肩に、かすかに震える両の手が触れ、それを追うようにノルベルトの熱く湿った吐息がなぞる。うすく開いた唇の影から、徐々に白い犬歯がきらめきを増し、長く、鋭く、尖っていく。
「お食事の時間ですよ、旦那様」
まさしくそれが牙と呼ぶべきものへと変化した瞬間、大きく開けられた顎がミノウの首筋にめり込んだ。
ガツッ。
皮膚を貫通する衝撃で体が揺れる。
体重の重み。嚥下と共に引っぱられる首筋と、内部で体液が吸われて動く感覚。皮膚のわずかな引きつり。
けれど、その中にまったく痛みはなく、いくつもの感触だけが冷静に状況を伝えてくる。ミノウは一心不乱に血を貪る主人の後頭部を満足げに見下ろした。
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