朗報

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「心配頂かなくとも挨拶だけしたらすぐに帰ります。二日と少しだけの間だけですよ」  ミノウは、ふうと息を吐く。  あれではまるで、年端もいかない子を残して出かける母親のような態度だった。  強すぎず心地よい初夏の日差しと、そよそよと流れていく風。婦人たちのかすかな笑い声がさざめく中でミノウは今朝のことを思い出していた。  暇があれば考えてしまうのは、主はちゃんと昼食を食べたかとか、使用人は忘れずに定期的に水分を運んでいるだろうかとか、端から端までノルベルトのことなのだから苗という種族は本当にどうしようもない。  山間の道を、馬車に揺られること半日弱。馬車は見上げるような巨城の門を潜った。ここはノルベルトの生家で、ミノウが暮らしていた場所でもあるが、日頃田舎暮らしをしている身には、庭園でのガーデンパーティーすら、きらびやかで目にまぶしすぎる世界だ。  早く挨拶の順番が来ないかと指折り数えているが名代として苗ひとりで来ているミノウは順番的に一番最後だ。大人しく待つしかないので、目立たないよう端の方に控えていた。  フロレンツの家は伯爵家の中でも家格で言えば上の方に分類される。土地自体は豊かではないが領地は広大で、その豊かさの証に北の港で貿易されているという丸い花びらを持った薄紅色の花があちこちに飾られているし、最近流行りの釣り鐘型の焼き菓子には隣の領地との境近くにある村で採れる希少な花の蜜がふんだんに使われていて、会場の設えにもだいぶ贅を凝らしているようだ。準備をした使用人たちもだいぶ苦労したことだろう。  だが、残念なことにそんな典雅な会場でさえ、来場者のすべてがお上品なわけではない。 「……ほら、あそこの苗の」 「やっぱり今日もいらっしゃってないのね」 「まあ、雄の苗ではないの。では、あれはショートストローということ?」 「わたくし、弟君ときちんとご挨拶できたことも無いわ。たまにお見かけしても、ひどい様相で。あれでお相手を見つけようと思ってらっしゃるのなら大変なことよ」 「屋敷から出ないという話だもの。きっとまわりと違っていらっしゃるよ」 「ほほ。いくら秀才と誉れ高くても、子孫も残せず、爵位も無しではお可哀想だこと」  宝石とドレスで着飾った貴婦人たちから、耳にタコができそうなほど聞いたあてこすりと、扇子越しの不躾な視線が届いてくるのをミノウは無視し続けていた。  こんなことに心を揺るがされるくらいなら、屋敷の飾り棚に取り揃えていた高価な茶器の代わりに埃にまみれた本が詰め込まれていた事件の方がよっぽどミノウの怒りは刺激される。それに、ノルベルトがこんな明け透けな攻撃を受けたら再起不能になってしまうかもしれない。本を読んでいるときはろくに人の話を聞いていないのに、こういった悪意の感情にはめっぽう弱いのだからうまくいかない。それなら自分が代わりにいるほうが幾分ましだった。  芝生の上に目を戻すと、空の真ん中を越えた太陽の光が大樹の木漏れ日としてきらきら射していて心が洗われる思いがする。庭師の腕が良いのか、丁寧に刈り込まれた芝生は青々と繁り、そこここに植えられた薔薇からは、ほのかに甘い香りがしてくる。  庭の中心で陽に照らされるフロレンツの明るい銀髪を眺めながら、吸血鬼は光の多いところが苦手なはずなのになあなどと栓無き事を考えた。人間の貴族の文化を踏襲したからだろうか。種族の特性とは相反する風習は他にもいくつかあった。 「やあ、久しぶりだな」  周囲と我関せずを貫いていたミノウに声を掛けたのは、まっすぐな黒い髪を一つに結わい、銀の刺繍をふんだんに入れた薄茶のベストを上着から覗かせた派手な男だった。複雑に結上げられたクラヴァットがいかにも気障ったらしい。  こんな格好をしていても、嫌な笑みを含んだ赤い瞳が彼が苗である動かぬ証拠だ。 「……どうも」 「お前は相変わらずしけた顔をしているな。ま、バッヘムくんだりに下って田舎暮らしをしていれば、そんな気分になるのも仕方ないか。しかもこんな場所に一人で、となればね」  無視するわけにもいかず、しょうがなく返事をしたが、直後にぶつけられた嫌味とにやにや笑いにやっぱり無視を決め込んでやればよかったと後悔する。
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