薄明かりの中の残念な主

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 またこの主は、机すら使っていないではないか。 「旦那様、……ノルベルト様っ」  ため息の出そうな気持ちを堪えて強い口調で重ねて呼びかけると、ゆうに、ふた呼吸はしてから返事があった。  おっとりとした声に、こちらの焦燥がまるで伝わっていないことがわかる。 「聞こえているよ、ミノウ。どうした?」  座れば床につきそうなほど伸ばされた少し癖のある暗い銀髪。その隙間から硬質な陶器のような頬が覗いている。ミノウの声に、けぶるような睫毛が気だるげに持ちあがり、夕焼けが終わって夜が始まる瞬間にも似た、紫と紺のあわいの瞳がゆっくりと現れる。  我が主ながら、この瞬間は何度見ても目を奪われそうになる。  長い髪と相まって中性的な憂い顔は美の化身かと見紛うほどだというのに、この男は昨夜から髪も整えていなければ服も替えていないし、あちこち髪はほつれ、上着なんて床に脱ぎ散らかしてある。  手入れを忘れ去られた庭園のような野放図さに、浮世離れした本来の美しさは見る影もない。食事のたびに一日何度も衣装を変えるのが貴族という生き物なのに、信じられないほど身の回りのことに無頓着なのだ。 「どうしたではありません。たった今、先触れが到着しました。予定が早まられたようで、じきにフロレンツ様が屋敷に到着されます」 「おや。もうそんな時間か」  のっそりと背中が起き上がる。髪がだらりと垂れて、ほとんど幽鬼かなにかのようだ。手入れが嫌いなら、いっそばっさり切ればいいと思うのだが、本人はこの髪型じゃないと落ち着かないらしい。お洒落という意味ではまったく興味がないのに、体に触れるものへのこだわりは人一倍強いのだ。  ノルベルトが本の表紙に溜まったホコリを払ったその手を、裾で拭うのが見えた気がしたが、さっと目を逸らして見なかったことにした。精神衛生上見ないほうがいいことがこの屋敷には多いのである。 「御召し物は? 床に座っていたなら皺になっているでしょうから、急いで替えなければ」 「そうか? これを着たのは昨日だったと思うからまだ大丈夫だ」  なにが大丈夫なのかまったく分からない答えを寄越す主を半目で睨む。目元ぎりぎりまで伸ばされた重たい前髪の奥で、血を煮詰めたようなミノウの赤い瞳がさらに燃え盛る色合いへ尖っていく。 「いいえ、駄目です」  もちろん答えは否だ。わからずやに向けて、とどめに首まで振ってやる。  こめかみで濃紺の髪がさらりと揺れる音がしたが、ミノウの内心はそんな穏やかなものではない。 「皺なんてよく見ないと分からないし……」 「だ、め、で、す」  視線はそわそわと革張りのアンティークの表紙をなぞっていて、目を離せばすぐ本の世界へ戻ってしまいそうだ。  吸血鬼であるこの主は人間よりもずっと頑強で、夜にも不眠にも強いはずなのだが、日頃からろくに睡眠を取っていないせいで目元のくまが常態化していた。ただの不健康の証で、一般的には敬遠されるはずのそれが、なぜかこの男にかかると退廃さを帯びた悪魔的な妖艶さに変換される。  まさに夜の化身。吸血鬼に相応しい容貌に、他の人ならころりと騙されてしまうかもしれないが、そんなことに構っている場合ではない。なにせ火急の事態なのだ。 「ミノウ様、丘の向こうに馬車が見えました!」  後ろから慌てた等に声を掛けてくるのは、階段の踊り場の窓から外を見張らせていたメイドだった。どうやらあまり時間は残されていないらしい。 「とにかく、私はお出迎えに参りますから。それまでにきちんと支度しておいてくださいよ!」  返事を待つ余裕もなく、言い放つように背を向けるとミノウは今来た廊下をまたせかせかと歩き始めた。
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