麗しき領主の到着

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「旦那様。書類であれば、こちらに。記録は種別と年代順で揃えてございます」  ぱちくりと目をしばたかせたノルベルトが表情を和らげた。  瞳の色は違うが、そうして笑うと無感情で精霊のように整った目元が、フロレンツとよく似たやわらかな雰囲気になる。 「助かる」  その手に封筒を渡して、さっと壁際へ下がるミノウをフロレンツがまた笑った。 「さすがよく主の扱いを心得ている。『(なえ)』にしておくのが惜しい男だ」 「そうですよ、兄上。うちの苗は優秀なんですから」  人前で自分の苗を誉める主がどこにいるのですか、といつも通りに言い返しそうになってきゅっと口をつぐんだ。こういうとき、従者は壁に徹しておくのが正解だ。  渡された書類をパラパラとめくっていたフロレンツがほどなくして顔をあげる。 「ところで……。私の理解が誤っていなければ、これは報告書ではないか? 今日のところはまず、経過を確認するのみと伝えておいたつもりだが」 「そうです。昨日のうちにあらかた片付いたので」 「昨日? 書物を送らせたのは先週の半ばだっただろう。期間も来月の末までと言ってあったはずだ」 「ええ、そうです」 「……あれだけの量をもうすべて読んだと言うのか? そうか。……まったく、お前というやつは」  どうということの無い風に答えるノルベルトだが、フロレンツの気持ちは痛いほど理解できる。  なにせ届けられた書物は馬車に山ほど積んでも三台分。しかも整理されておらず、分野も、書かれた期間もバラバラと言う状態だった。普通ならようやく目を通す準備が整ったくらいの頃だ。すべて読んで、さらにまとめまで終えてしまうにはどう考えたって早すぎる。 「報告書の概要ですが……シュタールベルクの水害は、記録がある中では最も大きいもので三百年程前、中程度のものであれば直近で四十二年前に起こっています。農業史に拠ればどちらのときも水没したのがここに記された地名。当時の修復用資材の発注記録に拠ると決壊地点と規模は……」  机の上に丸まっていた地図が開かれ、その端が周りに積まれていた本を重しにして雑に押さえられる。滔々と説明は続くがノルベルト自身は報告書に目もくれない。話している内容はすべて頭の中に入っているのだ。  この男は本好きが高じて、一応は貴族なのに、それを生業にして暮らしている。  神話から古文書、個人の日記、郷土史、政策録、料理のレシピ、発注書、天体記録、土地に伝わる農民の伝承を書き留めたものまで。もう一般にはほとんど忘れられている古語で書かれたものから、現代のくだけた若者言葉のゴシップまで。ノルベルトは、文字で書かれていればその一切に惹き付けられる。  様々な角度から蓄積された膨大な情報はノルベルトの頭の中でだけ複雑に交差し、立体的に浮かび上がっていく。  本と代金を受け取り、そこから読み解いた知識なり分かったことを依頼主へアドバイスする。そういった相談事を受けるのが彼の仕事だ。  フロレンツは今回、領内で行う治水工事の地区選定を依頼したと聞いているが、今受けているもうひとつの案件は疫病の対策方法についてだったはずだ。彼は本から得られる情報であれば専門は問わず、なんでも請け負ってしまう。  この書斎をとっくにはみ出して、屋敷の至るところの棚を埋め尽くしているのは、主人が方々から収集したありったけの本だ。  報酬が貰えて、しかもこれまでに読んだことのない様々な種類の本が手に入る。  これは言葉の裏を読むことを要求される社交界どころか、相手の心の機微に興味が持てず、長らく本だけを相手に暮らしているノルベルトにとってはまさに天職と言えるだろう。  大好きな本に倒れる寸前までかじりつく。たまにミノウに叱られながらもこんな生活が許されているのは、彼がすでに目に見える実績をいくつも叩き出しているからだ。  例えば、このバッヘムという街は、ほんの十数年前までは産業と言えば掘り尽くされた古い鉱山とそれを加工する工房がある程度の吹けば飛んでしまうような田舎町だったが、ノルベルトがずっと昔に途絶えた金そっくりの合金の製法を本から見つけ出し、それを事業の柱にしてからはすっかり潤いを取り戻した。  経営は安定し、冬を越せない人間もいなくなって、領民には崇められるようになった。それが貴族社会で話題になってからはさらに仕事も依頼が増え、ノルベルトはますます本だけを相手に生活できるようになった。  バッヘムゴールドの再興は有名な話だから夜会に出ればさぞ注目の的になるだろうに、参加せざるを得ないシーズンに幾つかの夜会にすら難色を示すのがノルベルトだ。  興味がないものにはとことん興味がない。彼にとって、富や名声など、朝食の卵が茹でられているか、炒られているかくらいの話でしかないのだろう。  数年前にシュタールベルクで虫害が発生したときは、フロレンツはバッヘムから送られる税にだいぶ助けられたはずだが、ノルベルトはその兄にすら自慢げな顔をしなかった。  さすが私の弟だ、と褒められたときはひどく嬉しそうだったから、もしかするとあれが一番の報酬だったのかもしれない。 「なるほど。それでは雪解けを待たずに着工するほうが良いだろうな」  フロレンツは説明に相槌を打ちながら、顎に指を掛けて考え込んでいる。  気品と落ち着きをまとったフロレンツとぼさぼさ頭でよれよれの服を着たノルベルトは、一見するとまったく似ていないが、こうして並ぶと兄弟だけあって、やや下がった目尻や、額から鼻筋へのラインのあたりになんとなく面影があった。ノルベルトもせめて人並みの格好をすれば、その美貌を活かせるのだろうが。 「優先順位をつけて最小限だけ行っても効果はあるかと。これはここ数年の気象記録です。前回決壊の起きたときのものがこれ。非常によく似ています。それに――」  ここまで話が進めばミノウにこれ以上は用がない。  一礼して音を立てないようにそっと扉を閉めて退室すると、すれ違った客室メイドにお茶を届けるように伝えて一階へと戻った。
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