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呼応する欲情
それから大して時間をおかずにフロレンツたちは帰っていった。
ミノウは出迎えたときと同じく見送りの列に並んだが、結局、客人が滞在している間ノルベルトは一歩も書斎から外に出て来なかった。
依頼主が持ち帰ったのは数枚の報告書だけで、依頼と供に届いた大量の書物はこのままノルベルトのものになる。
あのうず高く積まれた山をどこに収めたら良いだろうか。空いている本棚はもうなかったはずだ、とミノウは屋敷の中の壁をひとつひとつ思い出す。新たに棚を取り付ける職人の手配が必要かもしれない。
「……お帰りになりました。視察は終わられたと伺ったので、馬車が順調に進めば、夕刻にはシュタールベルクへ到着するでしょう」
部屋に戻って主にそう報告したが、返ってきたのは生返事だった。
「ああ、うん」
今度は床の上ではなく窓近くに置かれたソファに腰を下ろしていたが、足は行儀悪くひじ掛けの外に投げ出されている。そして、その視線と意識が本から離れることはない。
いっそ諦めて、返事があっただけマシと思うべきなのかどうか。
ノルベルトが一度集中すると、外の世界の出来事がまったく届かなくなってしまうのは昔からだ。話しかけられていると知りながら「答える必要を感じなかった」と聞き流していることさえある。
普通は、そう思ってはいても相槌くらいはするものじゃないかと思うのだが、そういった当たり前だとか、常識と名の付くものはノルベルトの辞書にないのだから困り者だ。
ひょいと読んでいた本を持ち上げて強制的に視線を奪うと、ノルベルトがようやくこちらを向いた。
「ん? どうした、ミノウ」
「今、私が申しあげたことを聞かれていましたか?」
「……いいや? でもお前が把握しているのだから大丈夫だろう」
悪びれない様子に、はあっと隠さずに盛大なため息を吐く。そんな言葉に騙されるミノウではない。
甘やかし屋の兄や、ミノウや、領主を慕う屋敷の使用人相手にならこんな態度でも許されるが、状況は以前とは変わってきていて、なあなあのまま許してやるわけにもいかなくなってきているのだから。
「いつまでもそのようでいては困ります。調べものの依頼も増えてきて、これからはもう少し外へ出なくてはいけない機会も増えるでしょうから」
少し前から、王弟殿下の補佐官から何度も書簡が届いている。飛び地になっている王領で昔から起きている風土病について調べて欲しいという内容らしい。この依頼の話が広がればまたひとつノルベルトの評判はあがるだろう。
ノルベルトは受けるつもりでやり取りをしているらしいが、一度正式に受けてしまえば、王族に報告をするのにまさかぺらりと書類を送るだけで済むとは思えない。馬車に乗って王都へ向かい、身なりを整えて、口上を述べ、もてなしに応じて、終われば夜会へ出る。そのすべてがノルベルトの苦手なことだ。一体どうするつもりなのやら。恥をかいて終わるくらいならいいが、王家を前にしてあまり心臓に悪いことはしてほしくないものだ。
それに、とミノウは思う。普段はクタクタのよれよれでも、きちんとした正装をすればノルベルトは美しい顔をした貴公子に見えるし、能力だって王族から直接引き合いが来るほどに高い。都で勤めれば官僚として爵位を得ることも容易いだろうし、もしかしたら吸血鬼の伴侶だって得られるかもしれない。そのためにも引き篭もりのままでは駄目なのだ。
「それに、寝ずに明け方まで起きていらっしゃるのでしたら、毎日届く書簡や、夜会の誘いへ返信する時間もありそうなものですがね」
チクリと皮肉を言ってやると、めずらしくもノルベルトがにやりと口の端を引き上げて笑った。
「ミノウ、私に研究を控えろと言うのはいい加減諦めたほうがいい。星が降っても槍が降っても、本から離れることはないし、理屈の通らない面倒事や健康的な生活とやらのために時間を減らすつもりもないよ。私が、へルマン卿の域に追い付いたと思えるまでは」
「またそれですか」
これは子供の頃からのノルベルトの口癖だ。へルマン卿というのは建国当時王に仕え、国の礎となる様々な施策を打ち立てて宮廷伯にまでのぼりつめた人物だ。複雑になっていた税制を整理して軽減し、長い戦で荒れた地に救貧院を建てるなど、人間たちの大きな反対なく支配権を移すことができたのは彼の功績も大きいと言われている。
そこまでは大抵どの教本にも載っているが、彼が政に携わる傍ら、様々な国や時代の歴史を研究する史学者だったことはあまり知られていない。領地を持たない位だけの貴族であったから個人的な記録がほとんど残っていないらしく、小さな頃からノルベルトに繰り返し語って聞かされた物語が、史実というよりも伝記の類だったと知ったのはミノウが大人になってからだった。
「あれはもはや伝説ではないですか」
「いいや、史実だ」
いくら無類の本好きのノルベルトでも、書物に書かれたことがすべて正しいとは思っていないはずで、むしろ、いくつもの情報から浮き上がってくる真実を見つけ出すのが彼の仕事なのだから、書を愛しながらも、誰よりもその内容に対して鋭く疑いの目を向けていると言っても過言ではない。
そのノルベルトが、ヘルマン卿のことについては理由も述べずにここまで断言するのだから敬愛とは盲目である。
「そうですか。では、そういうことにしておきましょう。それよりもノルベルト様、お食事についてですが」
ここで言い争ってもお互いの時間を浪費するだけだ。賢明にもそれ以上の追及を避けたミノウは、こちらに注意が向けられているうちに単刀直入に本題を突き付けることにした。
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