朗報

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朗報

 雪解けから春が訪れるまでは毎年数える暇もない。  近頃すっかり春めいた空気の中、屋敷は相変わらず厳重な鎧戸で麗らかな日差しを遮断していたが、それでもどこかこの季節の空気は生きるものの気配が交じっている。  濡れた土の香り、朝露の湿度や、花の色までが風を彩っているように生き生きとしているし、北部にとっては短くて貴重な春となるから領民たちの顔も華やいで見える。  それなのに、うちの主ときたら、今朝から真冬の嵐のよりも荒れ模様なのであった。 「さ、これで数日は大丈夫でしょう。念のため早めに帰るつもりではありますが」  簡単に身を整えたミノウは、やわらかなタオルでノルベルトの腰元を丁寧に拭うと主の衣服を元通りに着せなおした。  朝の着替えのようなてきぱきとした動作と冷静な口調には、先ほどまでの爛れた空気の残滓はひとつも見られない。どちらかと言えば、くったりとソファにもたれかかってまだ動こうとしない主人のほうがまだ頬が血色が良く、事後の気配を漂わせていた。  普段はかなり強引に迫らないと糧にありつこうとしないノルベルトだが、今回は必要性を理解していたせいか割合素直にミノウの言葉に従った。  その代わり、なぜか終わった後にはいつになくへそを曲げている。 「……苗なのに私から離れるなんて」  ぶつぶつと呟いて、終わってもずっとそこから立ち上がろうとしない。こちらが悪者のような言い草をされて、さすがのミノウも眉を上げた。 「旦那様はどうせこの屋敷どころか書斎からも出られないのですから、護衛も従者もいらないでしょう。まかり間違って隣国でも攻めてこない限りは安全だと思いますが」 「お前だって、傍を離れたら何があるかわからないだろう」  そちらがそれを言うのか。自分だって行きたくて行くわけではないのに、こんな状態になっているのは一体誰のせいだと言うのか。  腹の中のものを呑み込んで笑顔の形をとったミノウの瞳がノルベルトを見据え、そして、強烈な皮肉をお見舞いした。 「私のことを思ってくださるなら、フロレンツ様のガーデンパーティーへもご自分で行かれては?」  なんのためにこんな朝っぱらから血を与えて、さらにはその後の処理までしたと思っているのか。冷やかな目で眺めてやると、さすがにこれにはノルベルトも失策を認めたらしい。  もごもごと何事かを言い返しかけたが、そっと目を逸らしてやっと意味のある言葉を返した。 「……あ。……いや、それは……お前に任せる」  予想通りの回答だった。この主人が「では私が行こう」と言って意見を変えることなどあり得ないのだ。  ノルベルトは夜会も、それ以外の昼の集いも、自身が貴族の一員でありながら貴族の集まるところを好まない。  髪を結い上げるのが嫌だ。正装はぴっちりする。馬車が揺れる。それ以上にノルベルトが嫌うのは、建前の中から本音を見抜き、その場にふさわしい態度を取り繕うことだった。  普通は慣れれば難なく行えることが、ノルベルトは人の何倍も疲れるのだという。どうしても出席しなければいけないときですら、嫌々櫛を通させた髪の先を申し訳程度に結って、着古した上着にしか袖を通そうとしない。そうしてぎりぎりまで遅れていって、当日は壁と一体化していたかと思うとほとんど誰とも話さずに帰ってきてしまうのだ。  男ふたりで出掛ける夜会が居心地が悪いのはミノウとて同じで、無駄に連れ回されることがない分、助かると言えば助かるのだが、さすがにいつまでもこれでは心配にもなってくる。笑いながら毒を投げ、讃える裏で虚勢を張り、微笑みの影で刃を向けるような社交の場が感情の機微に疎いノルベルトに合うわけもないのだが、やはり貴族に生まれた以上はどうしたって最低限の付き合いは避けては通れないのだ。  一般的に夜会はそうそう断るものではないし、病床に伏している等、どうしても行けない理由があるわけではないのに領主の招く社交の場に出ないというのは、時代が違えば叛意を抱いているとされても仕方のない振る舞いだ。  そう見られたくないとき、断りの手紙よりも強く誠意を見せる方法が、苗を名代に遣わせることだった。  自らの一部とも言える苗を相手の元へ送るということが、人質を送って恭順を示すように、自分は赴くことはできないが断りにこれだけの犠牲を払って対応している、と大体そんなような証になるらしい。  大抵の付き合いは手紙一枚で断ってしまうノルベルトだが――その手紙すらミノウが代筆しているのだが――兄であるフロレンツへの断りにはきちんとミノウを送ることが多い。  おかげで手紙の知識だけでなく、礼儀作法の素養も身に付ける破目になり、正装は増えていく一方だ。自分の分は新調しようとしないくせに、ミノウが出るのであれば、我が主は実に気前よく衣装を誂えさせるのだからどれだけ外出嫌いか分かるというものだ。  一人で行ったところで楽しい思いをして帰るわけはないので、彼なりの償いのつもりなのかもしれないが、衣装部屋がぎゅうぎゅうになるだけの気遣いは止めてほしい。  妙な拗ね方をしている主人をしゃんと座らせると、子供に言い聞かせるようにミノウはいつもの言葉を口にしていた。
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