南部の女伯爵

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 そう、と目の前の苗はちいさく囁いて、それきり黙ってしまった。  会話は終わりだろうか。ミノウとしても初めて会った同族とこれだけで別れてしまうのは惜しいと思う気持ちがあったが、では何を話せばいいのかと言われるとよくわからない。  気づまりな沈黙の末、ミノウは懐から一通の手紙を取り出した。 「それでは、これをお渡しください。我が主からです」  また参ります、と腰を折ろうとしたところで、くんっと袖を引かれて顔を上げた。  見れば腕が触れるほどの距離に苗がいた。上目遣いでこちらを見上げているが、そこに相手を誘うような色香は見られない。幼子のような無防備さと、縋るような悲愴さが混じり合って一心にミノウを見つめている。 「あなたはご主人様が伴侶を見つけたら、どこへ行くの? わたしはきっと……捨てられる。そうしたら何をすればいいのかしら」  苗はたとえ劣悪な扱いを受けていても主の傍を離れることはないと教えてくれたのは、蔵書棚にある本だったか、まだ背の高くない頃のシピだったか忘れてしまった。  それを聞いたときに、納得したのか、憤ったのかも記憶に残っていない。  それでも、大人になってからフェランのように他の相手に体を許すのを間近に見る苗が少なくないことも知ったし、ミノウやシピのように丁重に扱われている苗の方が珍しいことも覚えた。  ただ、それと同時に、たとえ扱いが変わっても、きっと、何があっても自分はノルベルトのそばを離れることは無いだろうとも思った。  それほど苗にとっての主というものは、絶対的な存在なのだ。自分ではどうしようもないほどに。 「正直なところ、……私も、離れろと言われても、本当に主から離れられるのかはわからない」  例えば自分の好きな場所へ住むこと。思うように仕事を選び、主を選び、職業として働くこと。  屋敷にいる使用人を見ていれば何をどうするのか、どんな生活になるのかの想像はできる。特別な技能のないミノウでも、使用人としてなら職を見つけられるかもしれない。  けれど、いざ自分がそうなるというイメージはまったくできないのだ。それは自分が人間から厭われる苗だからという理由ではない。  ミノウにとって働くとは、何かを与えるとは、生きるとは、すべてノルベルトの隣にいることを意味しているからだ。 「……離れたら、生きることもできないかもしれない、とさえ思います」  だけど、それがノルベルトのためになるのであれば。  きっと自分は離れることを選ぶと思った。たとえ肉を切られ、血を流し、身を引き裂かれるような思いであっても。 「それでも、私は離れることを選びます。それが旦那様のためなら」  誰にも、それこそシピにすら言ったことのない本心だったが、縋るように瞳を震わせる彼女を見ていたら、とても曖昧にごまかそうという気分にはなれなかった。  苗だからという理由で受ける謂われなき中傷はどの苗とも共有できるが、ショートストローで生まれてしまったこの葛藤は、罪悪感と哀しみは、本当の意味では同じショートストローでないと分かり合えないのだろう。  吸血鬼とも、人間とも、普通の苗とも違う。それがショートストローという存在だ。  ミノウにとっても、きちんと会話をしたのは彼女が初めてだったが、わずかな会話の中で、自分が欲しかったのは共感だったのではないかとうっすらと感じていた。 「私はミノウと言います。お名前は?」  そういえば名前も名乗っていなかったと気付いて尋ねると「グリブイ」とちいさな声が返ってくる。  女主人の年齢を考えるとミノウよりもだいぶ年上のはずだが、どこか親とはぐれた子供のようで頼りなく、長年主人に使えているという風格はない。体に残る折檻の痕を見ると、残念ながらそういうところを愛でてくれる主人ではないのだろう。 「グリブイ。このことを手紙で相談しても、迷惑にはなりませんか?」  少し考えた間があってから、彼女はこっくりと幼げに頷いた。 「……わたし宛てのものなら」  ミノウは、きっと手紙を書くとを約束して屋敷を辞した。  大きな屋敷の周りでは幾人もの庭師が植木を整えている真っ最中だった。  花追いのときの一時的な住処だというのに随分な念の入れようだ。きっとさっきは苗相手だから誰も出てこなかっただけで、グリブイ以外にもたくさんの使用人を領地から引き連れてきているのだろう。  その金があるのなら苗が袖を通すような華美でないドレスの一着二着、わけなく仕立ててやれるだろうに、と重たいものを飲み込みながらミノウは後ろを振り向いた。  グリブイはじっと、いつまでもドアの隣に立ってミノウを見送り続けていた。
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