第11話

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第11話

 結論から言えば、溜池からゆうは見つからなかった。溜池どころか、園とその周辺のどこからも。当然と言えば、当然だった。ゆうは、元々存在しないはずの子なのだから。  溜池に飛び込み、帽子を掴んだものの、ゆうはいない。私は半狂乱になって、捜し続けた。しばらくして何人かの職員に力づくで引き上げさせられ、なおも溜池に入ろうとするのを押し止められた。  そのうちに警察と救急隊がやってきて、私の訴えと濡れた園帽子から、一通りの捜索が行われた。周辺にも聞き込みがされ、そもそもいなくなった子どもがいないと判明すると、その日のうちに捜索は打ち切られた。保育園の職員の勘違いということで、あっさりと。  私は救急車で病院に運ばれた。どこも悪くない、帰る、あの子を捜すと主張したが、気温が低い中、水に濡れて体力が続かなかったのか、打たれた注射のせいか、待っている間に意識を失い、一泊の入院と相成った。  翌日、両親が病院まで迎えに来てくれたが、報告と謝罪をすると言い張り、卒園式後の土曜日で人気の少ない園に向かった。  事務室には園長先生がおり、警察や保護者、地域の人への対応、市役所や会社への報告はすべて済んでいると聞かされた。おゆうぎ室の割れた窓ガラスも嵐のせいということで、文字通り片付けられていた。  園長先生は怒るでも、叱責するでもなく、 「子どもが落ちたと見間違えるなんて、ちょっと疲れていたのかしらね。今日明日はゆっくり休んで、また月曜日から出勤してくださいね」  わたくし、パソコンが苦手だからあなたがいないと困るのよ。この件の報告書を送るのにもメールですものね。そんなことを付け加え、上品に微笑んだ。  事務室を辞去してから、園の隅々までを歩き回った。保育室、おゆうぎ室、園庭、花壇、物置……ゆうはどこにもいない。溜池には人影すらなく、ただフェンスに「立ち入り禁止」のラミネート加工された貼紙がべたべたと貼られてあるのみ。  風は無いが、冬が戻ったかのような染み入る寒さに身震いする。桜はまだ咲いておらず、花冷えと呼ぶには、少しまだ早い。ウールのマフラーに顔を埋めながら、ゆう、と誰もいない園庭でその名を呼ぶ。呟きは白い吐息とともに、空へと溶けた。  週明けに出勤した時、園の職員の反応は、予想したものとは随分と違っていた。 「大丈夫ですか、もう少し休んでいたほうが良かったんじゃないですか」 「いつも冷静な三田さんが、うっかり飛び込みするなんてびっくりです」 「園児を助けようとしたんですよね、自分のアレルギー省みず。なんか感動ー」  だから違うって、と河先生が他の先生からつっこみを入れられる。  大騒ぎを起こし、懇親会もお流れにしてしまったのに、保育士の先生たちはなぜか好意的だった。こちらの謝罪も笑って受け入れてくれる。ひとしきり盛り上がった後は、それぞれが持ち場に向かい、通常通りの園に戻った。  ――だいじょうぶだよ、おかあさんは。  ゆうの最後の囁きが、小さな火花みたいに燃えて、私の耳奥をいつまでも熱くした。  伊勢崎先生と顔を合わせたのは、それから二日後だった。以前から卒園式後に有給を申請していたのだ。彼女は早番だったため、朝は時間が無く、昼休憩中に彼女の元を訪れる。伊勢崎先生は年長が卒園して空室となった〈きりん組〉で、新年度用の壁面飾りを作っていた。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。私を溜池から引き上げてくれたのは先生ですよね。ありがとうございました」  伊勢崎先生は型どおりの私の謝罪と礼と用意していた菓子折りを、やはり型どおりに受け取った。だが、私はすぐには彼女の元を去らなかった。どうしても訊きたいことがあったのだ。 「伊勢崎先生は、見ましたよね」  何を、とは言わなかった。  伊勢崎先生は手を止めず黙々と作業を続けている。重ねた画用紙に下書きもしないまま鋏を入れ、みる間に五枚の画用紙から五羽のひよこを生み出す。私にはとても真似できない妙技だった。先生たちは、こんなふうに頭と手を駆使して手間を省き、限られた時間で作業を進めていく。鋏を置き、ひよこたちを模造紙の上に並べてから、伊勢崎先生は口を開いた。 「……結構、見えるたちなんです」  どこかで聞いた台詞に、私は瞬いた。伊勢崎先生はひよこたちから目を離さない。まるで羽ばたいて逃げてしまうのを見張っているように。 「前々から気づいていました。ファイルがなくなったり、消したはずの電気が点いていたり、子どもの髪が引っ張られたり。他にも色々。いることは知っていたんです。でも、」  隣の隣のクラスから給食のいただきますの声が響く。伊勢崎先生が顔を上げ、まともに目が合った。  「まさか、その子のために溜池に飛び込む人がいるとは思わなかった」  我知らず、深い溜息が漏れた。私は精一杯のお辞儀をして、〈きりん組〉を後にした。  新年度を迎えて半月。職員の異動や、園児の新入と進級で、小さな混乱はあったが、さとの保育園は落ち着き始めていた。『うっかり溜池事件』――河先生の命名だ――は、終息するというよりも笑い話になっており、地域の人にも広く知られ、妙なもので私に気軽に声を掛けてくれる人が増えていた。  ゆうをゆうとして認識した『ちびっこギャラリー』から一年。私は園長先生と事務室に二人きりになった時を狙い、話を切り出そうとした。 「あの、園長先生。ご相談が」  ゆうはあれから現れていない。園からゆうの気配が消えていた。残ったのは、持ち主のいない黄色い園帽子とミスコピーの裏に描かれた手紙、そして手帳に挟んだ桜の花びら。おもちゃや用具は全て名前を消して、倉庫の奥底に仕舞い込んだ。そのうち誰かが見つけてリサイクルしてくれるだろう。 「三田さん、ゴールデンウィークのご予定は?」  逆に話を振られ、私は言葉を飲み込んだ。上司から訊かれて答えないわけにはいかない。 「今のところ特にはありません、大丈夫です」  休日出勤の打診だろうと当たりをつけて返答する。さとの保育園は、通常は日曜のみが休みで、土祝も開園しており、必ず事務室番を置くこととなっている。断るつもりは無かった。あれだけ迷惑を掛けたのだ、望まれるのなら、なんでもやろうと思っていた。せめて園に勤めている間は。園長先生は良かったわと頷き、 「お付き合いされている方はいないんでしたね」 「は?」 「お見合いしませんか、三田さん」  私は仏様を彷彿させる柔和な顔を凝視する。 「地域コミュニティの会長さんにどうしてもと頼まれましてね。溜池の件では、捜索でお手を借りましたし、断ると今年度の行事のお手伝いも依頼しにくくなるので」  お願いしますね、とにっこりと微笑む園長先生に、私は絶句した。 「それから、わたくしの任期の今年度中は辞めないでくださいね。今更、パソコンを覚えろと言われても、老体にはむごい話でしょう?」  机の下で隠し持っていた退職願の端を握りしめる。  ――だいじょうぶだよ、おかあさんは。  耳の奥で、火花が弾けた気がした。
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