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父のいた大学に入ることができ大学生活も半分過ぎた頃、私はここの教授だった生前の父の業績を知りたくなり、父のやってきたことを調べ始めていた。
五年前、55歳でがんで亡くなった父は経済学の本を専門書ばかり何冊か出していたのだが、大学の附属図書館の蔵書を調べてみると、一冊だけ自費出版した小説のようなものがあることがわかった。
父の専門については難しくてよくわからないのだが、そんな中で自費出版の小説という本の存在は異色で、私の興味をあおった。
『紫陽花』とタイトルがつけられたその本は、閉架書庫にあった。カウンターの司書に申し出ると、閉架書庫の鍵を貸してくれた。自分で取りに行くものらしい。
附属図書館の地下一階は全て閉架書庫に割り当てられていた。貸してもらった鍵で入り口を開けて電気をつけ書庫に入ると、一面が本棚のだだっ広い空間が広がっていた。誰もいない。入り口のドアを閉めると何の音もしなくなった。明るいのだが異様な空間で、こんな場所が大学構内にあるとは知らなかった。
メモを手に目的の分類棚を探す。かなり奥まで歩く。何の音もしないので、耳鳴りがした。時々、金属が収縮するピシッという音がしてドキッとする。
目的の棚を見つけ、端から父の名前を探す。
「あった……」
棚の中央辺りで『紫陽花』のタイトルを見つけると、さっそく手に取り中を確認する。
読み進めてみると、経済学者で堅物だった生前の父の姿からは想像がつかない物語で、なぜこんな話を? と疑問に思ったが、独白の文体をとったその物語は妙にリアルで、私は夢中になってその場で読んだ。
すると突然書庫の電灯が全て落ちた。
「えっ」
無音の空間に私の声だけが響いた。誰かが間違えて電気を消してしまったのだろうか。私は叫んだ。
「あの、まだここにいます!」
返事はなく、声がこだました。目がまだ慣れない。非常灯があったのはさっき確認したが、本棚に隠れてしまってどこにあるのかまるでわからない。
見えない。
その時、遠くで足音がした。こちらへ近づいてくる。
「誰かいるんですか?!」
足音の主は答えない。しかしゆっくりとこちらへ向かって来る。
私は恐怖を感じた。
逃げないと……!!
直感でそう思い、私は足元に置いたバッグを手探りで抱え込み、本棚をつたいながら移動した。しかし、初めての場所だ。どちらから来たのかよくわからない。
相手は懐中電灯を持っているようだ。棚の間からチラチラと光が見える。少し目が慣れてきた。追って来る相手と反対方向に向かって走ったが、焦って本棚の角に足が引っかかってしまい、前に転倒した。
「いた……っ!」
動けなくなった私の後ろに人の気配を感じた。とっさに振り返ると、懐中電灯の光が私を照らす。暗闇に埋もれていた目には眩しすぎて目が開けられない。
強烈な光源の向こうに、誰かがいる。誰かが私を黙って見下ろしていた。
「誰なの?!」
相手は答えず、黙ったままだった。
私は動けなかった。
相手が誰なのかはわからないが、尋常ではない憎悪を感じた。決して友好関係を結ぼうとしている人間ではないことは明らかだった。
次の瞬間、空気が動いた。
バーン!! と私の目の前で破裂音が起こった。
何かが体にぶつけられたのかと思って身を縮めたが、痛みはなかった。想像と現実のギャップが埋まる頃、事態を把握した。相手は本棚から抜き取った本を、床に思い切り投げつけたのではないか。
そこに思いが至った途端、今度は本がバラバラと落ちてくるのを感じた。
私は身をかばった。
懐中電灯の光が乱れる。相手が落としているのだ。
そして音が止むと、遠ざかる足音とともに光も去っていった。
再び静寂が訪れた。バタンというドアが閉まる音とともに、電気がついた。
私の足元では、想像したとおり棚から落ちた本が山を作っていた。
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