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木漏れ日の下で
いつもの階段を上る 二階に冬香はいない
どうすれば冬香を 呼び出せるだろう
私はピアノに向かう
ベートーベンの『エリーゼのために』を弾く
曲が終わる頃 どこからともなく冬香が現れ
私の肩に手を置く
「美月 どこへ行ってた?」
「えっ?」
「朝 一度 ここまで来ただろう?」
「知ってたの?」
「美月の足音 確かに聞いた」
嬉しかった
「静かだったから 冬香 寝てるかなと思って・・・」
「そう 確かに寝てたけど・・・」
「今日は天気がいいから 公園でお昼にしましょう」
「公園?」
「うん ゆっくり歩いても5分くらい」
「いいけど・・・僕の服装・・・変じゃない?」
「変じゃないわよ いつも素敵よ」
冬香の腕をしっかり支え ゆっくり連れ出す
「嬉しい 冬香と外を歩けるなんて 夢みたい」
「ああ・・・日差しを感じる 風を感じる」
「気持ちいいでしょ?」
「うん・・・気持ちいい・・・ありがとう 美月」
冬香が転ばないよう
私は彼の体にピッタリ体をつけ
冬香の左手を私の肩に回し
私の右手で冬香の腰を抱く
冬香は右手で白い杖を持つ
サンドイッチや飲み物は
私のリュックに詰め込んである
意外とスムーズに冬香は歩いた
「ストップ 1m先 10cm程度の段差 高くなります」
「ストップ 50cm先から石畳です」
など 時折 私なりの言葉で注意を促す
「美月 なぜか とても安心できる」
「大事な冬香に ケガさせたくないから」
「大事な・・・僕が?大事?」
「とっても大事 私 裏切らないって言ったでしょ?」
「言ったけど・・・僕は 信じられないんだ」
公園に着く 2人並んでベンチに座る
ペットボトルの無糖の紅茶を渡す
「あ・・・どうして これ選んだ?」
「え? サンドイッチに合うかなと思ったから」
ポテトサラダのサンドイッチを
冬香の手に持たせる
口元に持っていき 匂いを確かめる
「どうして どうして これ選んだの?」
「私が好きだからよ 嫌いだった?」
「いや 僕も これ好きだ」
「あと ハムサンドと明太子のおにぎりもあるわ」
「嬉しい どれも僕の大好きなものばかりだ」
「よかった 風に吹かれて食事するのもいいでしょ?」
「うん ありがとう」
冬香は閉じられたままの まぶたを震わせ
涙をポロポロこぼした
私は彼の頬に伝わる涙を ペロペロ舐めた
「バカ 公園で そういうことするな」
「いいでしょ もったいないんだもん 涙」
「変態だ 美月」
「変態は 嫌い?」
「いや・・・大好きだよ」
フフフッ ハハハッ
よかった 冬香を外に連れ出せて
「あ・・・弟が来るんだった」
冬香は 不安そうな表情をした
「まあ大変・・・急いで食べて帰る?」
「ううん どうしよう 僕がいないと驚いて探すかも」
「じゃ・・・帰らなきゃ・・・」
いつの間にか 秋穂が横にいた
「兄さん 秋穂だよ」
「秋穂・・・どうして?ここに?」
冬香は驚き うろたえた
「ちょうど そこまで来た時 兄さんたちが見えたんだ」
「あ・・彼女は・・その・・」
「兄さんの恋人だろ? 初めまして 冬香の弟 秋穂です」
「こんにちは 美月です」
仕方のない演技 ごめんね冬香
「こ・・・恋人・・・って」
冬香は当惑している
「いいな 兄さん 美人の恋人とデートなんて」
「美人? 美月って美人なの?」
冬香は秋穂に尋ねる
「本人を前にして言うのも変だけど・・・きれいです」
秋穂は私の顔を見て
微笑みながら答える
「秋穂さん 優しいのね フツーよ 残念ながら」
冬香は相変わらずオロオロしている
秋穂は気を利かせて言った
「デートの邪魔だね 兄さん 後で電話して」
「うん そうする ごめん」
「いいんだ よかった 兄さんが幸せそうで」
秋穂は私に手を振って 去って行った
木漏れ日の下で 甘い夏の風に吹かれて
私は冬香と ゆっくりランチを楽しむ
「今度は もう少し遠くまで行こうか」
カカオ78%のチョコレートを
冬香の口に放り込む
「美月は どこへ行きたい?」
「海 砂浜 水着で砂浜で遊ぶ」
「楽しそうだね」
「うんうん ワクワクしちゃう 冬香 水着持ってる?」
「ないよ 水着なんて」
「じゃ 先に 水着を買いに行こう」
「それも楽しそうだね」
「いつも買物とか どうしてるの?」
「秋穂に頼んでるよ」
「そうなんだ ねえ いっしょに買物に行こうか?」
「え?今から?」
「うん 何か必要なものないの?」
「あるけど・・・」
「この辺の店で買えるなら いっしょに行こう」
私たちはピッタリ寄り添って買物した
少し離れたスーパーまで行き
バナナとパンとヨーグルト
ハンドクリーム めん棒
ウェットティッシュなど
私のリュックに詰められる
ギリギリまで買って
ゆっくり歩いて帰った
『黒薔薇』の階段がある壁面の
右の隅にドアがあり
そこから入ったところが
冬香の住居なのだという
「見せられるような部屋じゃないと思うけど・・・」
「いやなら 私は入らないわよ」
「いいよ 入って 感想を聞かせて」
そこは普通のマンションみたいな空間だった
玄関から短い廊下が続き
トイレ 洗面所 風呂があり
部屋は10畳くらいの居間 続きでキッチン
奥に10畳くらいの寝室 続きでクローゼット
すっきり片付いている
秋穂が片付けているのだろうか
冬香は買って来たものを
手探りで置くべき場所へ置く
「どんな感じ? 僕の部屋」
「きれいに片付いてるわ 私の部屋より きれい」
「疲れただろう?僕と歩いたら」
「疲れないわ 楽しかった」
「こんな人間と暮らせると思うか?」
「思うわ 冬香は 私といっしょじゃ不安?」
「まったく不安は感じなかった 不思議なくらい」
「よかった」
「よくないよ」
「何がよくないの?」
「僕は 美月を幸せにできない」
「どうして?」
「僕に 何ができる 何もできないんだ」
「じゃ聞くけど 私を幸せにするために 何が必要なの?」
「体力も 経済力も 精神力も 知識も 何もかもだ」
「そうね 確かに そのすべては大切かもしれない」
「僕といっしょにいて楽しいのは せいぜい1ヶ月」
「1ヶ月過ぎたら?」
「うんざりするだけさ」
「そういう考えから抜け出せないならね」
「抜け出せないよ」
「抜け出させる 殻を破るの」
「誰が?」
「私がよ 私が冬香の 勝手な思い込みの殻を破る」
「僕の 思い込みの殻を?」
「体力も経済力も 精神力も知識も 必要なら備えればいい」
「どうやって?」
「頑張って・・・」
「どうやって 頑張るんだ?」
「私といっしょに頑張るのよ」
「美月は もっと楽しい生き方を選べるんだ」
「冬香といっしょに頑張りたい それが一番 楽しいの」
「本当に・・・本気にしちゃうじゃないか」
私は立ったまま話し続けていた冬香を
居間にある白いソファーに座らせ
横から体を抱きしめた
冬香の汗の匂いがした
好きな匂いだった
彼は力なくソファーにもたれたまま
アクションを起こさず ジッとしていた
私は 冬香の閉ざされたまぶたに
キスした
「目が見えないからって 心まで閉ざさないで」
そう言い残し 私は 部屋を出た
自分の心が見えない
目が見えていても 心が見えない
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