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誰?
扉の向こうには真っ赤な絨毯が敷き詰められている
黒い革張りのソファーやスツールがいくつか見える
ピアノが見えない
曲が佳境に入り 終わる
私は息を潜め 扉の陰に立ち尽くす
いきなり予想外のテンポで始まる
アルベニスの『アストリアス』
ここが日本であることを忘れる
自分が高校生であることを忘れる
扉の向こうの暗い部屋に
かすかな夕陽が射し込んでいたのに
気がつけば真っ暗になっている
真っ暗になっても
変わらずピアノは歌い続けている
終わりなき歌を繰り返している
と思ったら
「誰?」
と声が響く
ピアノは鳴りやんでいる
怯えた私は即座に
「ごめんなさい」
そう言って階段を駆け下りる
駆け下りながら心は
声の主を振り向きたくて
走り去る自分の足が いつかきっと
また ここへ来てしまうと予想する
次の日の放課後
私は迷いなく同じ裏路地の
同じ階段を上ってしまう
ベートーヴェン『月光』が
物悲しく 奏でられている
足音を忍ばせ 息を殺して 聞き入る
どうしてこんな場所でクラシックを?
ジャズやポピュラーな曲ではなく
クラシックを?
不可思議な疑問と音の魅力が共鳴する
第3楽章の途中 一瞬の間合い
というはずの間合いが 長く途切れて
「昨日の人でしょう? どうぞ こちらへ」
男性の声
どうしよう
「ごめんなさい ピアノ聞きたくて・・・・」
「ありがとう どうぞ 近くまで来てください」
扉の向こうに足を踏み入れる
見えなかった場所に低いステージがあり
端っこにグランドピアノ
ピアニストはじっと目を閉じたまま
椅子に腰かけている
20代か30代か 黒いシャツに黒いズボン
立ち上がる気配はなく 振り返りもしない
「リクエストはありますか?」
「ドビュッシーの『夢』を・・・・」
彼は白い鳥の羽のような指を
なめらかに踊らせ
水のしたたるような
水がきらめき流れるような
清涼な音たちを 私の胸に滑り込ませる
いつのまにか
ドビュッシー『アラベスク第一番』になって
私は かすかな夕陽が漏れる
高い窓から空を見る
曲が終わり 彼はポツンと言った
「僕 目が見えないから 安心してください」
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