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戯れ
次の日 とても暑かった
私は カチカチに凍った
カキ氷風のアイスを買って
溶ける前にと 彼のもとへ走った
今日は ショパンの『子犬のワルツ』が
軽快に響いている
階段を駆け上がり 荒い息のまま
彼の後ろに立つ
短いワルツは終わる
私は ちょっと ふざけて
彼の頬に アイスを軽く押し当てる
「ワッ!」
ふふふふっ・・・・ハハハッ・・・・
笑ってくれた
「今日は めちゃ暑いから アイス買ってきた」
「びっくりした・・・いいね アイス」
「はい・・・あーん して」
ちょっと苦笑してから 彼は口を開けた
私はスプーンで彼の口にアイスを運んだ
「ああ これ・・・好きだった」
「私も これ・・・好きなんだ」
私はアイスを頬張りながら言った
「君も食べてるの? 同じスプーンで?」
「あ・・・ごめん・・・イヤだった?」
「イヤな訳ないだろ 嬉しいよ」
「よかった」
あっという間に アイスは食べてしまった
「ねえ あなたの名前 聞いてもいい?」
「名前? なぜ 名前を知りたい?」
「名前を呼んでみたいから」
「ハハハッ・・・君は不思議なヒトだ」
「どうして? 私は ミツキ 美しい月って書くの」
「美月・・・きれいな名前だ」
「嬉しいわ 名前を呼ばれると・・・あなたの名前は?」
「トウカ・・・冬の香り」
「冬香・・・冬に生まれたの?」
「1月29日」
「まあ 私は5月29日よ」
冬香は ベートーヴェンの『悲愴』第2楽章を弾き始める
今日のピアノは 静かな中に抑揚があり
テンポもゆっくり目で
何か語りかけるような 穏やかな時間
曲が終わり 私は冬香の左手に触れた
今日は 左手を温めると 約束したから
左手を両手のひらで包むと その手は震え
「もう少し ここにいて 帰らないで・・・」
彼は小さな声で 言った
私は彼の耳元に口を近づけ ささやいた
「大丈夫・・・まだ・・・帰りたくない」
彼は私の両手の中にあった左手で
グッと私の手を握った
「美月・・・いけない子だ・・・」
「わかってる・・・・私 いけない子だわ」
「僕を深い悲しみに突き落とすためのプログラム」
「そうかもしれない・・・・」
「僕の心をもてあそぶ残酷なプログラム」
「そうかもしれない・・・・」
「知っていても この手を離したくない」
冬香は私の手を強く握り
スッと放して
いきなり ベートーヴェンの
『熱情』第3楽章を奏でる
走る 走る 暴走だ
転んだら指を骨折する勢いで
爆走している
乱打 乱打 乱打 乱打 狂乱だ
弾き終わった彼は
自分で自分にあきれたように
大きなため息
「私にも 弾かせて」
私は ピアノの直ぐ横までスツールを運び
驚く彼を立たせ スツールに座らせる
私はドビュッシーの『月の光』を弾いてみた
ここのピアノの音響で弾いてみたくなった
冬香に比べれば 技も力もないけど
想いだけはある
月の光を 冬香に届けようという想い
いい響きだ
家のピアノで弾くより ずっといい
曲を終えた時 ふと振り向くと
冬香は上を見上げるように
顔を上げたまま 涙を流していた
私はポケットからティッシュを出し
冬香の涙を そっと押さえた
「ヘタ過ぎて・・・・寂しい?」
と聞いた
「うん」
と笑った
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