203号室の氷室さん

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○帰路(夜) 桜「……はぁ」 桜(M※モノローグ)「私は二宮桜(にのみやさくら)、22歳。会社を出た時からずっと肩を落として、トボトボ道を歩いている」 ○(回想)会社(昼) 先輩の女性『二宮さん。貴方という人は、本当に要領が悪いわね』 上司の男性『二宮さん、ここは会社。君が春まで通っていた大学と違って、お金を貰って仕事をする場なんだ。もっとしっかりしてもらわないと困るよ』 桜(M)「通りすがりに、同じ部署の先輩に嫌味を言われて謝る」 桜(M)「書類を持っていったら上司に叱られて、ペコペコ頭を下げて謝る」 ○回想終了 桜「……はぁ。私って昔から、頑張ろうとすればするほどダメになるんだよね……」 桜(M)「夜道を歩きながら、何度目だかの溜め息を吐く。入社してから毎日必死に動いているんだけど、何をやっても裏目に出てしまう」 桜「……私……。皆さんに迷惑をかけてばかりだ……」 桜(M)「今度は夜空へとため息をつき、いたっ。うっかり電柱にぶつかってしまった」 桜「いたた……。なにやってるんだろ……」 桜(M)「私は鼻を押さえながら再び歩き、およそ4分後。先月から自宅となった、二階建てのアパートに到着した」 桜「……はぁ。はぁ……」 桜(M)「私は引き続き自己嫌悪をしながら少し古い階段を使って2階に上がり、自分の部屋である204号室を目指す」 桜「……はぁ。お風呂入って、今日は早めに寝よ……」 桜(M)「そう呟きながら201号室、202号室を通り、何もない通路でまたうっかり転ぶ」 桜「……はぁ……。ホントダメダメだなぁ、私って……」 桜(M)「地面に顔を付けたまま呟いて、そうしているとおもわず涙が零れ落ちる。『このまま消えてしまいたい――』、そんな思いも込み上げてきてしまう」 桜「…………。…………。…………」 桜(M)「だから私はもう、口を動かす気力もなくなってしまった」 桜「…………。…………。…………」 桜(M)「私は顔や膝の汚れを払ってゆっくり立ち上がり、ゆっくりと歩きはじめる」 桜「…………。…………。…………」 桜(M)「そうして力なく、203号室の前を通り過ぎ――ようとしていた時、だった。不意に、203号室の扉が開いた」 氷室「やっぱりそうだった。さっきの音は、二宮さんが転んだ音だったんだね」 桜(M)「ドアの向こうから、優しげな目をした爽やかな男性が顔を覗かせる」 桜(M)「この人は隣人の、氷室正人(ひむろまさと)さん。都内にあるイタリアンレストランでシェフをしてる、25歳の美青年だ」 ○回想 アパート・桜の自室(夜) 桜(M)「引っ越し初日にトラブルが起きて、なせか私の部屋だけ突然停電に。荷物を出していた私は、予想外の出来事に初の一人暮らしという不安も合わさり、酷く慌てふためいてしまった」 桜「ど、どうなってるの……っ? なにこれ……っ? こわい……っっ!」 氷室「すみませんっ、先程ご挨拶をしていただいた隣の氷室です。大きな声がしましたけど、何かありましたかっ?」 桜(M)「そんな時に氷室さんが駆け付けてくれて、しかも家内を色々調べてくれて停電は解決。こうしてピンチを助けてもらい、後日お礼をしたことが切っ掛けで、私達は親しくなった」 ○回想終了 氷室「こんばんは、二宮さん。大丈夫かい?」 桜「いつものことなので、平気です。氷室さん、今日は帰りが早いんですね」 桜(M)「いつも帰りは夜の9時か10時くらいなのに。今日はどうしたのかな?」 氷室「今日は、朝から休みをもらってたんだよ。先週は取材もあって、働きづめだったからね」 桜(M)「氷室さんは中でもパスタ料理が得意で、様々な雑誌で取り上げられるほどの腕の持ち主。確か前の週は、火曜と土曜と日曜に取材があると言ってたっけ」 桜「そうだったんですね。ゆっくり休めましたか?」 氷室「うん、久し振りにのんびりできたよ。ただ僕は料理が好きだから、退屈という気持ちもあったね」 桜(M)「氷室さんは、穏やかな顔に苦笑いを浮かべる。そしてそのあと私に向かって、温かい微笑みを作ってくれた」 氷室「だから今、無性に誰かに料理を作りたいんだ。よかったら、僕の我儘に付き合ってくれないかな?」 桜「えっ。いいん、ですか……?」 氷室「二宮さんさえよければ、是非そうして欲しい。どうかな?」 桜「よ、喜んで。ご飯がまだだったので、とても助かります」 桜(M)「それに…………ずっと独りだったら、負のループに嵌ってた。だからその提案はいつも以上に有難くて、私は氷室さんに促されて203号室のドアを潜った」 桜「お部屋に来てもらったことはあるけど、お部屋に入るのは初めてですね……。お、お邪魔します……」 氷室「ようこそお越しくださいました。中へどうぞ」 桜(M)「実は人生初となる異性の家は、白を基調としていて清潔。埃一つ落ちていないし良い匂いがするしで、イメージしていた男の子の家とは真逆だった」 氷室「僕は料理が生活の中心だから、他は必要最低限のものしか置いてないんだ。殺風景でごめんね」 桜「いいえ、そんなことないですよ。なにかに夢中になる、集中できるのは、素敵だと思います」 桜(M)「チェストとテーブルとノートPCがあるシステムデスク、料理関係の本がびっしり並ぶ本棚が2つ。以上で構成されたリビングスペースで、私は首を左右に振った」 氷室「あはは、そう言って貰えると嬉しいよ。今から大急ぎで作るから、そこで寛いでいてね。食事のリクエストはありますか?」 桜「お任せ、します。だって氷室さんは、一流のシェフですから」 氷室「いやいや。まだまだ一流ではないけど、分かりました。ご期待に応えられるものを作ってくるよ」 桜(M)「氷室さんはノートPCを触ってクラシックを再生してくれたあと、洗面所で手を洗って隣にあるキッチンに入っていた」  カチャカチャカチャ トントントン 桜(M)「そうして暫くすると、包丁やフランパンの音が聞こえるようになって――」  ジューッ ジューッ 桜(M)「やがて、ニンニクやトマトの香りがするようになって――」 桜(M)「そんな空間で私は両目を瞑り、いつもとは違う場所で起きているいつもとは違う出来事を、楽しんだのでした」             ○○ 氷室「二宮さん。お待たせしました」 桜(M)「あれから、二十数分後。氷室さんがやって来て、私の目の前に二つの皿が置かれた」 氷室「アマトリチャーナと、ハーブのサラダです」 桜(M)「一つは、トマトを使ったパスタ。もう一つは言葉通り、ハーブやレタスを使ったサラダだ」 桜「あの、氷室さん。この……。あま……。あま…………とら……」 氷室「アマトリチャーナのこと、だよね? ちょっと説明するね」 桜(M)「氷室さんは口元を緩めて、パスタに目線を移した」 氷室「これはグアンチャーレ――豚頬肉の塩漬けと、ペコリーノ・ロマーノ――羊の乳のチーズとトマトを使ったパスタ。スパゲッティより少し太いブカティーニというパスタの一種であえた、むこうではポピュラーなものなんだよ」 桜「へぇ~、そうなんですね。知らなかったです……っ」 氷室「このレシピは来日した現地の人に教わったもので、僕も驚いてしまった味なんだ。どうぞ召し上がれ」 桜「は、はい。いただきます」 桜(M)「フォークでパスタ達を絡めとり、口に運ぶ。そうしたら――っっっ。口内に塩漬けのしょっぱさとトマトの酸味とチーズのコクが広がって混ざり合い、私の頬は自然と緩んだ」 桜「美味しいっ。美味しいですっ」 氷室「あはは、それはよかった。特にそのパスタは熱々が美味しいから、どうぞ僕を気にせず召し上がってください」 桜「は、はい。いただきますっ」 桜(M)「テーブルの向かいに座った氷室さんは、ニコリ。私は穏やかに頷いてくれた氷室さんに頷きを返し、特製のパスタとサラダに舌鼓を打つ」 桜「サラダもサッパリしてて、おいしい……っ。サラダを挟むと口の中がリフレッシュされて、またしっかりとパスタの味を感じられます……っ」 桜(M)「流石は、イタリアンのシェフさん。私はこの二つの組み合わせに『やられて』しまい、あっという間に完食してしまった」 桜「氷室さん、ご馳走様です、本当に美味しくて、幸せな一時でした」 氷室「あはは、そうですか。……貴方に笑顔が戻って、よかった」 桜(M)「ずっと正面にいた氷室さんは、優しく目尻を下げた」 氷室「働き始めてから毎日表情が暗くて、今日は特に落ち込んでいたからね。ホッとしたよ」 桜「ぁ……。氷室さんは、私のためにこれを……」 氷室「料理には、人を幸せにする力があるからね。微力ながら動かせてもらいました」 桜(M)「氷室さんは穏やかに微笑んでくれて、そのあと。微苦笑を浮かべた」 氷室「実は僕も働き始めた頃は、沢山失敗したんだよ。何回も何回も失敗して、そのたびに怒られてたんだ」 桜「そ、そうなんですか……? 想像、できません……」 氷室「頑張ろうっていう気持ちが、空回りしてしまってね。何をやっても大失敗。やろうとすればするほどダメになる、悪循環だったんだ」 桜「……私も、それ……。そう、なんです……っ」 桜(M)「予想だにしない言葉が出てきて、私はおもわず前傾姿勢になった」 桜「少しでも皆さんのっ。採用してくれた会社の役に立ちたくて、必死に動いてるんですっっ。でも逆に、周りの仕事を増やすようになっちゃって……」 氷室「上司に、叱られてしまう。そして申し訳ない気持ちで一杯になって、自分が嫌になってしまう」 桜「そうっ、その通りなんですっ。こんな自分が嫌で、どうにかしたいと考えるんですっっ!」 桜(M)「私は身を乗り出して何度も何度も頷き、そして……。スーツの胸元をきゅっと握り締めて、氷室さんを見つめる」 桜「今の氷室さんは、今の私とは真逆な人……。私と似た状態だった氷室さんは、どうやって今の氷室さんになったんですか……?」 氷室「そうだね。僕は、必死に頑張る事をやめたんだ」 桜(M)「氷室さんは、苦笑した」 氷室「自分が張り切ることで状況が悪化するなら、そうしなければいい。だから僕はまず、頑張る事をやめた」 桜「………………」 桜(M)「さっきの予想外よりも、更に予想外な内容だったから。私は呆然とお話を聞く」 氷室「そうして僕は、暫くは最低限の仕事をするようになった。決して無理をせず、けれど力を抜きもせず、平均点の働きをした」 桜「………………」 氷室「そうやって僕はじっくりと、職場に馴染むようにしたんだ」 桜「……。職場に、馴染む……」 氷室「職場に馴染めば『自分がやるべきこと』を正確に把握できて、空回っていたエネルギーを正しく使える。正しく使えるようになったらもう、やる気が裏目に出る心配はないよね?」 桜「……はい。そうですね」 氷室「僕はそこから『遅れていた分』を一生懸命取り戻して、ここにいる。これが、昔の僕が今の僕になった方法だね」 桜(M)「氷室さんは自分の胸をポンと叩いて小さく笑い、それから。とても穏やかな、温かい目を向けてくれた」 氷室「大丈夫。二宮さんも絶対に、変われるよ」 桜「……っっ」 氷室「同じ立場だった僕が言うのは、かなり変かもしれないけどね。そういう事で悩み落ち込める人は、立派な人」 桜「……ひむろ、さん……」 氷室「そんな人が本来持つ力を発揮できるようになったら、職場を変えられる能力を持つ人間になれる。必ずや『遅れ』を取り戻せて、それどころかもっともっと現場を良くできる」 桜(M)「氷室さんは真っ直ぐな目と声調で、言葉を紡ぐ」 氷室「だから慌てず、落ち着いて生きていこう。いい意味で普通に、仕事をしよう」 桜「………………」 氷室「そうしたら二宮さんは間違いなく、理想の自分になれるよ」 桜(M)「氷室さんは自信に満ちた顔で、断言してくれた」 氷室「とはいえ。最初はどうしても焦ってしまうし、分かっていても不甲斐なさを感じる時がある」 桜(M)「氷室さんは自分を一瞥して、続ける」 氷室「そんな時は遠慮せず、ウチに来て欲しい。何かあれば僕が相談に乗って、言葉と料理で不安を取り除くから」 桜「……氷室さん……っ。ど、どうして……っっ。どうして私のために、そこまでしてくれるんですか……?」 氷室「昔の自分を見ているようで、放っておけないんだよ。それに僕はね、キミみたいに一生懸命な子が好きなんだ」 桜「ふえっ!? すっ、好きっ!?」 桜(M)「心臓がビクンと跳ねて、顔がボッっと赤くなる。まるで茹でられているくらい、身体が熱い……っ」 桜「へっ!? あのっ! その……っっ」 氷室「二宮さん? 急にどうして――あっ、失礼しましたっ。好きというのは異性としてではなく、人間としてという意味だよ」 桜(M)「キョトンとしていた氷室さんは、慌てて訂正。首を2回左右に振って、丁寧に頭を下げた」 氷室「言葉足らずで、本当に失礼しました。知り合って間もない隣人に言われると、驚いてしまうよね」 桜「い、いえ……。そうですけど、そうではありません、よ」 桜(M)「いつも優しくしてくれる、氷室正人さん。この人になら、好きと言われてもいい。というか……。むしろ、言われたい、な……」 氷室「? 二宮さん、それはどういう……?」 桜「なっ、なんでもないんですっ。本当に何でもないんですよっ」 桜(M)「きょ、今日は氷室さんが、私を心配してくれて誘ってくれた日っ。だからこういう話は禁止。こういう話は別の日にしましょうっ」 桜(M)「私は心の中で早口で喋り、どうにか取り繕いに成功した私は、そのあと少しお喋りをして203号室を出た」 氷室「さようなら、二宮さん。何かあったら遠慮なく来てね」 桜「はい、そうさせてもらいます。今夜はありがとうございました」 桜(M)「私は引き続き心臓をドキドキさせながら、さようなら。氷室さんのおかげで前を向けるようになった、んだけど……」 桜(M)「……なんと、言いますか……。ひょんな事から、ここに来たい理由がもう一つできちゃいまして……」 桜(M)「どうやら私はこれから、頻繁に203号室を訪ねることになりそうです」
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