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いなだま
夏の終わり、通学路の大橋から見下ろせる一面の田んぼのひとつひとつに、不思議を覚えていた。
誰の足跡もないのに、所々の稲が薙ぎ倒されているのだ。まるでいたずらしたカーペットみたいに。僕は宇宙人を信じられなかったので、物知りのじいちゃんにそのことを訊ねた。
コオロギたちの、短く吹いた笛のような声がひしめく縁側。
満月の青い光を浴びながら、近頃咳が増えていたじいちゃんは、痩せた喉から錆びた声で、人伝に聞いたように答えた。
コウジン様は籾米の鱗
晩夏の月光に揺蕩いながら、白めいて泳ぐ
こがねの鱗
ときどき実った田に遊び、それでまた立派に着飾る
コウジン様のノタバになれば、七年豊かになるという
難しい言葉も多くて、全て理解できたわけではなかった。けれどこめかみがぞわぞわして、どうしてか口元が弛んだものだ。じいちゃんはそんな僕を見て、優しい笑みを浮かべていた。
じいちゃんは、次の新月の晩に死んだ。
火葬場に続く橋の上から見えたのは、荒涼とした刈田原だった。
黒く暗い、乾いた泥の冷ややかな、ただ広いだけの夜だったのを覚えている。
以来今日まで、この話を思い出したことはない。
「お前。お前だろ、浦棚っていうのは」
お弁当箱を広げて、箸を挟んで合掌するところまではいつも通りだった。ワックス臭い床も、蛍光灯の刺すような光も、教室中で反響する姦しい騒ぎ声も。今日はなにか、特に「転校生」と「イナゴ」という単語が耳に入ってくる。「イナゴ」は女子トイレにでも湧いたのだろうか。たぶん「転校生」は湧いていないと思う。
「おう、シカトとは腹立たしいな」
見上げると、学生服に身を包んだ金髪巨躯の男子生徒が居た。そのほぼ完全に閉じられているように見える糸のような目にも、見覚えはない。
「お前、浦棚の...浦棚か?」
「なに言ってるんだ?僕は確かに浦棚だけど」
妙な言い回しに、図らずも口を開いてしまった。僕が眉を顰めるのを見るや、彼は少し口角を上げた。
「あんた誰だ」
仕返しのつもりで、僕は訊ねた。
「俺は、あーん....ウガだ」
「...渾名かなんかなの」
「まあそんなようなものだ」
ウガは椅子を引いてきて、背もたれに抱きつくように跨がった。割と精悍な顔つきをしていて、華やかな金髪は似合っていなかった。
「僕はこれから昼ご飯を食べるんだ」
「かまわん...しかしお前、友だちできんぞ」
「うるさい...いらない」
僕は箸でつまんだキュウリを、無造作に噛み砕いた。
ウガは僕がおかずを平らげ、かちこちに詰められた白米を半分食べ終えるまで弁当箱を興味深く眺めていた。彼は昼食を取る様子を見せない。大方、授業中に早弁でもって済ませたのだろう。くれと言っても遣るつもりは無い。
「箸が止まってるぞ」
ウガがこちらを、明るい前髪の奥から覗き見ていた。僕は白米の残りを慌てて箸で二分して、片方の塊を頬張った。ウガはいやらしく笑っている。
弁当箱を包んだところで、ウガが再び口を開いた。
「神社の子どもなんだろ、お前」
僕は「またか」と思いながら、少し間を置いて無言で頷いた。
一年生として今春に、ここへ入学してから、この手の質問には辟易していた。神社の息子だろ?という言葉に続くのは決まって霊体験の有無の確認や、無神経な羨望だ。誰が広めたか知らないが、迷惑極まりない。くだらないことを言う、中身が小学生からちっとも成長していない連中の相手なんかしたくはない。
「俺、ここに来て間も無いんだ。それで、神社とか祠とかそういうのが好きなんだ」
「変わってるな」
好きというのは、得てしてこの場合、どうせ、気味悪くて面白そうとかその程度のことだ。次に来るのは、連れて行ってくれという言葉に違いない。彼の明るすぎる髪色に、僕は彼の軽くて矮小な性根を見た自信があった。
「で、だ。そういうとこ、連れていってくれんか」
「冗談じゃない」
矢継ぎ早に答えても、ウガはしかし、面食らう様子さえ見せなかった。
「興味があるんだよ。放課後、良いだろう?」
太い眉は一抹の動揺すら見せていない。性根の割に、表を繕うのは余程こなれているように思われた。いや、だからこそ巧妙なのかもしれない。僕が友人だと思っていた奴は、みんなそうだった。
僕が答えないで居ると、彼は「じゃあ、そういうことで」と立ち上がって、たちまちに教室から出て行ってしまった。捨て置かれた椅子は、静かに且つ速やかに教室の空気が占領した。
昼の喧噪は衰えを知らず、予鈴に向かってますます膨らんでいく。その中でひとりぼっちの僕は、ウガのあの威圧的な肩を思い出して少し、身震いした。
放課後、目立たないように校門から出て行こうとすると、不意に肩を掴まれた。振り返ると、ウガである。
「おう、行こうや」
ぞっとしないデートにたじろぐ僕を余所に、彼は意気揚々の相であった。もうほぼ閉じられている目蓋を、目尻に皺を作るほど細く絞って、笑っている。僕は肩の手をふりほどいて、目配せをしてから歩き始めた。昼休みから六時限目まで鬱々としていた僕は、席を立ち鞄を背負ったときに、覚悟を決めたのだ。どうせ数時間のうちには終わることである、耐えてしまえばいい。理不尽に不機嫌な暴力に曝されるよりははるかにマシだ。
彼は素直に付いてきた。小柄な僕に巨漢が付いて回るのは、さぞ滑稽な絵面だったように思う。
田舎町ではあるが、祠や神社は多くない。なんでも明治時代、政府にほとんどを壊されたそうだ。学校の近辺にはせいぜい、馬頭観音や青面金剛、狼藉を食らってやもめになった道祖神の石碑などが三つ四つである。最寄りの社殿のある神社は、川向こうの我が家に隣接する。
そのように説明し、橋を渡ろうと誘うと、ウガは不満気な顔でかぶりを振った。
「コウジン社があると聞いたが」
ああ、そう言えばそうだった。
大橋と垂直に交わる土手の西の端に小山があって、ここを人は「入らず藪」と呼んでいる。鬱蒼とした杜だ。コウジン様と呼ばれる神様が祀られているのだが、薄気味悪いので例祭以外は誰も寄りつかない。
参道は夏草が茂っていて、足下が覚束なかった。これを綺麗にするのは我が家の仕事で、あと半月もすればまたここに来なければならない。後ろを歩いているウガの口数は、少ない。けれど不機嫌という相ではないように思われた。
「ここは良いところだよな」
山に立ち入って五分ほどして、彼が唐突に呟いた。私の不機嫌を司る神経が速やかに反射をした。
「知ったようなことを言うな。もの珍しいだけだ」
「お前こそ、だ」
「なんだと。意味の分からないことを言うな」
ここはただの薄汚い雑木林だ。それ以上でもそれ以下でもない。
獣道を十分ほど登ると、石段が見えてきた。両端を風車でまばらに飾られた五十段ほどの階段は、ところどころ苔に覆われている。木々の間から差し込んだ陽光でてらてらと光っていて、爽やかな湿り気があった。
それを登り切った先ではドラム缶四本分の胴回りがある杉の大木が僕らを見下ろしていた。高いだけの樹だ。傍らには寄り添うようにしてランドセルじみた石造の小祠。そして、それだけだ。
「この大きい木。神木って扱いなんだけど、あと半月したら例祭があって、ここに藁で編んだコウジン様を巻くんだ。龍によく似たやつだ」
気弱を体現した猫背の小太りな父が、薄くなったタオルを額に押し当てて汗を拭う光景が脳裏を過ぎる。今朝もはやくから作業をしていた。
ウガは興味なさげに「はぁん」と頷いて、あたりを少し見回した。ややあって、勝手にいそいそと石段へと向かっていった。
僕はそれを見送った。それから、彼が見えなくなった後、誰かが捨てていったらしい空き缶を拾って、祠へ放り投げた。缶は祠に当たって、こぃんと情けない音を出し、跳ねてから向こうの斜面へ転がっていった。ざまあみろと、独りごちた。
山道を降りてくると、視界が途端に明るくなった。まだ残暑が厳しいが、爽やかに青い空、その下である。
先だって出て行ったはずのウガの姿は見あたらなかった。多かれ、神社巡りも俄に起こした興味本位で、飽きてしまって帰宅したのだろう。性根の悪い笑みが浮かびかけて、慌てて引っ込めた。なんにせよ、開放感はあるというものだ。もう二度とこんなボランティアやるものか。
土手には私独りで、涼しくなってきた風を思うままに浴びることの贅沢に、少し心が安らいだ。
「おーいっ」
と、その束の間を遮って、太い声がした。ウガに間違いなかった。声のする方を見ると、そこには確かに彼の姿があった。田んぼを二枚ほど行った先で、手を振ってこちらに呼びかけている。
彼の背後に広がる田はしかし、とても田んぼとは言えない荒れ果てた様相だ。なんなら灌木も根付いているし、稲の五倍くらいの高さのススキや葦で覆われている。まるでそこだけ猛々しく毛が生えているかのようだった。
「なんだーっ?」
僕が土手を下りながら叫ぶと、そこにすかさず返ってきた言葉は、意味不明であった。
「喋る汚い亀がいるぞーっ」
足が止まった。アブラゼミがクライマックスを兆すかのような絶叫を乱立する。その間を縫うように降りてきた、木々の虚に潜んでいた静寂が、耳元を掠めて時間を止めたかのようだった。
そして亀は流暢に喋っていた。
「ああ、坊ちゃん、浦棚のだね。まあ、座って下さい」
亀は食器を運ぶ盆ほどの大きさで、確かに泥やら藻やら苔やらがついてみすぼらしかった。人語を口走る度にぱくぱくと、への字に結んだ小さな口が開いたり閉じたりするのが機械のように見えた。しかしその声は、雫が垂れて水面を打っているような、穏やかで澄んだ音だった。
僕は言われるがままに、横になった直方体の石に腰掛けた。股の間から見てみるとそれには「泥亀稲荷神社」と刻まれている。
「亀が喋ってるぜ、こんなに頭小さいのに」
若干の嘲りが含まれた口調で、ウガが言う。亀は口をつぐんで、首を伸ばしている。
亀の顔というのはご機嫌に見えるなあなどと思ってみた。
「おい亀よ、何故おまえは喋れるのだ」
開いた口が塞がらない私に対し、ウガはというと当たり前のように話しかけている。なんという肝の据わり方だろう。しかしそんなウガに対し、
「小僧の弱そうな頭で理解できるような説明はしてやれない、すまない」
と、亀はいやに辛辣だった。
「あの、すいません...」
現状すげなくされているわけでもなかった僕は意を決して、なぜか敬語で問うた。
「はい、なんでしょう」
「ええと、亀さんは...あのー、いったい...」
「おいおい浦棚、お前そりゃあ喋る動物はカミサマかヌシだと相場が決まっておるだろ」
ウガが、喉元を引っ掻きながら舌打ちをした。いつのまにか学生服を脱いで、肩に掛けている。一層厳つく見える。
「いかにも。吾は泥亀稲荷です」
ゆるりと、亀は答えた。それは水が高いところから低い所へ流れるようなそんな当然を思わせる口振りで、瞬時にして一切が腑に落ちたような幻覚に包まれた。
「忘れてしまっているようだけど、きみはよくここに来ていたよ。うんと幼い頃です。草吾郎(そうごろう)とだ」
はっとした。草吾郎というのは僕の祖父の名だ。僕の名字なら、あるいはウガから聞いていてもおかしくは無かったけれど、祖父の名が出てくるのは偶然や仕込めるタネでは無い。あるいはこの亀は、カミサマなのかもしれない。僕はもう一度、足の間に目を遣った。腰掛ける岩には確かに、「泥亀稲荷神社」の六字がある。
それから亀は僕と祖父、加えて父のことについて滔々と語った。中には僕でさえ忘れた事柄も有り、こちらの驚嘆はと言うと、止まるところを知らなかった。
「...嘘だろ、そんなことあるのか」
「こうして浦棚少年はまた大人になったのであったぁ」
彼は巨躯を揺すって、カラカラと笑った。
「坊ちゃん、名前は、確か草丞(そうすけ)と言ったかな」
不快な笑い声の合間から、亀様の声が聞こえた。僕は頷いて返した。
「草丞、では。
ひとつ頼みがあるんだが、聞いてもらえはしないだろうか」
亀様は亀らしからぬ真剣な眼差しで僕を見ている。
大橋に入って、河の真上に来たところで僕は、溜息を吐いた。ウガは首を傾げた。
「思えば、お前が仕組んだに違いないのだ」
ウガはまた大きく笑った。
幅の広い河はまっすぐ橋に垂直に、ゆったり流れている。治水技術の低かった昔はよく荒れたと聞く。その様は龍が泳ぐとも。今は極めて穏やかで底が見透せてしまい、そんな話も俄には信じ難い。ちゃぷちゃぷと呑気な水音が聞こえてきそうだった。
傍の車道を、軽トラックが過ぎていった。開け放たれた車窓から響く大音量のラジオからは、規律正しい女性の声がした。「イナゴ」という単語がはっきりと聞こえた。
「今晩は、来るのか」
ウガは後ろからぶっきらぼうに問うた。
なんのことかと思ったが、すぐに合点がいった。亀は頼みごとを託すや、「夜更けに大橋へと来い」と僕たち誘ったのだ。いや正確に言うと、ウガがそう仕向けたのだろう。僕は沈黙と早足で答えた。
「いまさら、認められないか。馬鹿にし過ぎたと」
何かを踏んで、足を止めた。右足をどけると、ガラス玉が転がり出てきた。それは陽光を屈折して、僕の目を刺した。目映いゴミだ。
「うるさい」
蹴っ飛ばそうとした。
「ヒカガクテキなことは、並べて下らないと思っているな」
「...そうだよ。何も考えず続けているだけのことも全部」
早起きをする父を思い出す。
「ふん。意気地のない奴め」
ウガは吐き捨てるように言った。
「あ。おかえり、草丞...コウジン様の目玉?良いけど無くさないでね、大切なものだから。画竜点睛を欠くなんて笑えないからさ」
父は、鳥居の前で掃き掃除をしていた。首筋に玉のような汗が浮かんでいて、見るだけで暑苦しい。少し残った水筒を渡すと、ごくごく飲んだ。
ウガのことは父に任せて、僕は家に上がった。作りかけのコウジン様は、奥座敷にいるはずだ。
軋む板張りの廊下を抜けていき、突き当たりの襖を開けた。
ごとりごとりと重い音がして、埃と古くなった藺(いぐさ)の臭気が鼻を掠めた。
斜陽も届かない薄暗い室内。暗い穴蔵。そこに、稲藁の龍がとぐろを巻いて、朱色の瞳でこちらを見ていた。部屋全体がその太い胴で満たされているような、圧迫感がある。気を抜いたら一呑みにされるような不安、不可侵を要求する畏ろしさで充満している。敷居を跨ぐ足の先が、ぴりりと引き攣れた。
僕は意を決して、足を踏み入れた。
テニスボールほどの目玉を二つ持って戻ると、そこにはウガだけが居た。彼はこちらに手を差しだし、「俺が渡しておく」と言う。
「お前、あんな仕掛けまでして、何なんだ」
そうまでしてコウジン様の瞳を欲しがる理由がわからなかった。この転校生は、いったい何者なのか。
「来ればわかる」
ウガはまた、不快な笑みを浮かべた。
「...明日返せよ」
「今晩のうちには元のようになる」
「言ってろ」
踵を返し、彼は鳥居を潜っていった。陽はほとんど落ちかけている。肩にかかった黒い制服が夕闇に少しずつ溶けていくのに対して、その金の髪は一層、光を照り返していた。
ふと、彼の後ろ姿に違和感を覚えた。それは見送ってから数時間後に、彼が学生鞄を持っていなかったことだと思い至ったが、どうでもいいことだった。
夕飯の席、居間ではテレビだけが喋っている。
昼間の映像だ。どこかの田園らしい。ニュースキャスターがマイクを片手、興奮気味にこちらへと視線を向けている。その声と瞳にはどこか怯えが見えた。
「イナゴ」
父が、呟いた。驚いて見遣ると、あちらも目を丸くしている。
「大発生だって。各所甚大な被害」
「どこで?」
「今日は隣町」
「ここは大丈夫なの?」
父は微笑んで、頷いた。
「大丈夫だよ。コウジン様が守ってくれるさ」
その言葉には、妙な説得力と安心があった。
僕は昼間のことを思い出した。
そして、こめかみがぞわぞわと、震えた。
僕は満月の下、白い夜、通い慣れた橋にいた。
袂まで点々と続くはずの灯りは闇夜に吸い込まれる前に、強い月明かりで霞んで見えなくなっている。車は一台も走っていなかった。
不意に、大きなものが風を切る音がした。
僕は車道へと飛び出し、欄干にしがみついて、夜の田園を見下ろした。
暗くとも、青白い光に仄明るい一面は水底のようである。風で波打つ無量大数の稲穂は、キメの細かな砂に見えた。その中を、一匹の龍が、這うように泳いでいた。
白めいた狐色の龍だ。龍が、そこにはいた。当たり前のように、居た。僕はしばらく、目を離せないでいた。
その間に何度も、龍は同じことを繰り返していた。彼は少し高くへ飛んで周囲を見下ろした後、ゆるりと実り豊かな田んぼへと泳いで行くや、穂へと身体を擦り付けるようにしてうねうねと長い身体を捻っていた。それはカーペットにいたずらをして喜んでいるようにも見えた。田原全体に満遍なく行われたアソビは、やがて彼が橋の真上に来ると、二度と行われることはなかった。
僕の頭上には、黄金色になった龍がいる。籾米を鱗にまとった、美しい龍がいる。熟れたカラスウリのような朱の瞳で西を睨んで、長い身体をくねらせ、宙にとどまっている。風を浴びて揺れる背びれが、この上なく快さそうだった。
いつの間にか隣には、軽トラックほどの大きさの亀がいた。昼間に見たのとよく似ていて、けれど背中には灌木や背の高い植物が乱雑に生えていた。きつい、泥のにおいがした。
「来るぞ」
亀が清流を思わせる声で言った。
僕は、西を見た。
西の空の奥には、黒い山脈がわずかに見えていた。やにわに、その数ある頂から黒い影が沸き立ったように見えた。はじめ僕はそれを、噴火のものだと納得した。けれどそれは、微かに鼓膜を叩く不快な低音の接近に覆された。
「行く」
龍が、筒を抜けるようにしてするりと舞った。一呼吸の合間に、彼方へと小さくなった。
糸のように細く、月夜の水底を漂った龍はーーーしかしたちまちに黒雲に包まれた。あっと息を呑むが、亀は微動だにしなかった。
やがて、その音は暗黒の帯とともに、東へやってきた。
無数の羽音である。心臓の脆いところに直接響くような不安だ。帯は輪郭をぼかして、それでも強力な圧力をともなってこちらに至りつつあった。
「大丈夫です」
それでも亀は、そう言った。
轟、と重い風音と横殴りの雨のようなイナゴの群れが、僕たちを巻き込んだ。
翅や甲殻が不断に、頬やこめかみ、首を叩きかすめていく。
その嵐の中で、僕は確かに朱色の瞳と視線を交わした。彼はその時、ぴったり閉じそうなくらいに目を細めて、嫌らしく微笑んだ。彼の身体中には無数のイナゴがしがみついていたが、その奥には月の色を照り返した豊穣の輝きが燦然とあった。
瞬く間の出来事だった。
過ぎていった龍はイナゴの雲を引き連れ、河をなぞりつつ東へ泳いで行った。そしてすぐに、細く小さくなって、見えなくなった。
強い月明かりで川面はぼやけて、境界は曖昧になっていた。
いつの間にか亀はいなくなっていて、橋の上は静寂と僕と、置いて行かれたイナゴ達だけだった。
うなだれた電灯は、袂まで続いているようだった。
お弁当箱を広げて、箸を挟んで合掌する。いつも通りだった。ワックス臭い床も、蛍光灯の刺すような光も、教室中で反響する姦しい騒ぎ声も。
今日はなにか、特に耳に入ってくる言葉もなかった。
朝のホームルームで紹介された転校生は、皆に囲まれて恥ずかしそうにしている。肩まで伸びた黒い髪の美しい女子だ。
僕は箸をゆっくり動かしながら、窓の外を眺めていた。遠い所で、水色絵の具に水を混ぜたような薄くはっきりしない雲がある。巻層雲だ。ずっと高い所にあるらしい。
今朝早起きをして父を手伝った時、コウジン様の朱い瞳と目が合った。
父は嬉しそうに「こんなに心強いことは無いよ」と笑って、藁の編み方を教えてくれた。
僕は口元をきつく結んで頷いた。
奴が見ているかもしれない。
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