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 半泣きの円の背を摩る。円は顔を俯けたままそれを受け入れる。 「円、棄権しよう。足が腫れてる。これ以上は走れないよ」  俺の言葉に俯いていた円は再び顔を上げ俺を見る。 「ダメだ! 俺はっ、最後までやらなくちゃ、俺はッ」 「ま、円落ち着いて」  足が痛むのも厭わず立ち上がり走り出そうとする円の肩を押さえつけ地面に縫いとめる。 「ダメなんだ…! ちゃんと、やらなくちゃ…ッ!」  そう言いもがく円の目は恐怖に縁取られていた。その目の色に、釣られて俺も怖くなる。円がこれをやり切れないと何か起こるのか。怖いことが、やってくるのか。 「円、はしりたいの?」 「……はしりたくない。けど、はしらなくちゃ」  きゅ、と俺の手を握る円に、口元を緩め笑う。 「ね、円。だいじょうぶ。全部だいじょうぶだよ」  人が来た気配に口を噤む。今来たのはおそらく木下だろう。深呼吸をすると気持ちが少し落ち着いた。 「木下」 「先輩! 遅れました、すみません」 「俺だって最初の集合遅れたから。気にしないで」 「会長は無事ですか」  チラリと円の顔を伺うと、少し不安定ながらもいつもの無表情だ。 「足挫いちゃってるみたい。生徒会に連絡入れてから保健室連れてって」 「了解です」  不安そうな顔を覗かせる円に、ニコリと笑ってみせる。 「円、言ったでしょ。大丈夫だよ」  俺の言葉に円は目を見開く。それから目元をふにゃりと和らげた。 「……うん」  円が頷いたのを見て、木下に円を連れて行くのを頼む。捻挫しているようだから本当は二人掛かりで肩を貸した方がいいのだろうが、俺は俺でやらなくてはならないことがあった。 「じゃあ後はよろしく」  微笑むと、頭の奥がズキンと痛んだ。低気圧でも来ているのだろうか。遠くの方では雨雲が渦巻いていた。 *  円のいた近辺を探ると、三浦が使用していたと見られる隠しカメラを発見した。 「キミコか……?」  いや、それともイチカだろうか。  どちらにせよ、カメラを壊すのは躊躇われる。しかし円とのやり取りも撮られている以上、データの削除は必須である。  風紀の方で回収したが中身を確認したらデータが飛んでしまったということにしてSDの中身を削除することにしよう。削除したらカメラと一緒に三浦に返却しておけばいいだろう。  カメラをウエストバッグに仕舞い、代わりに黒のヘアカラースプレーと銀縁眼鏡を取り出す。通販で注文したものが先日届いたのだ。  スプレー缶を振り、髪に振りかける。乾くのを待ってから眼鏡を掛ける。スマホの画面に移して確認するとそこには円がいた。  ため息をつき、右腕から風紀の腕章を外す。  ──しょうがない。だってこわいものがきちゃうから。  ニヤリ、笑って走り出す。「桜楠様だ!」とはしゃぐ声が背を追ってくる。足音は徐々に増える。ふと振り返ると、大群が築かれていた。  円は人気者だなぁ。  平坦な心がパチンと言葉を弾き出す。どこからともなく現れた卑屈な感想に、そうだなと返す。  あと何分走ればいいんだろうか。もう大分走った気がする。前をきっと見据えると、くらり、脳が揺れた。  ──こわいものが きちゃう よ  足がフラつく。視界が真っ黒に染まる。タタラを踏み、立ち止まる。もうダメだ、走れない。  頭がガンガンと痛む。雨雲はもうすぐそこまで来ていた。足音が迫るのを感じる。あぁダメだ。捕まったら、ダメなのに。 「アンタ! 警備サボって何遊んでんですか!」  ふらり、座り込みかけた俺の腕を誰かがガシリと掴む。肩を貸してくれるその声は、確かに聞き覚えのあるものだった。 「神谷……?」 「そーですよ。神谷です」  なんで。俺のこと嫌いなはずじゃ。俺の髪は今黒で、円にしか、見えないはずなのに。なんで。なんで助けてくれるんだ。  沢山の疑問符が頭を飛び交い、浮かんでは消える。  言うべき言葉はこういう時に限って出てこない。普段ならもっとうまく誤魔化せるのに。 「ごめん、神谷。ごめん……」  ぐたり、項垂れ神谷の肩にもたれかかると背を優しく抱きしめられる。 「……なに、優しいじゃん」 「さすがに、」  神谷は言いかけた言葉を飲み込む。何事かを口で転がしてから、新たな言葉を紡ぐ。 「頼りない副委員長をカバーするのは優秀な後輩の務めですからね」  目が霞んでよく見えないけれど。きっと神谷はドヤ顔をしているのだろうと。そう思った。  ポツリ、頬が濡れる。とうとう降り出したらしい。 「……あ」  神谷の声の後、頭に布のような何かを被せられる。スン、と匂いを嗅ぐと先ほど抱きしめられた時に香った匂いである。  神谷の、ブレザー……だろうか。 「ちょっとの間我慢してください」 「あ、待って神谷。俺、終了時刻まで円の代わりをしないと……」  見えなくても神谷の怪訝そうな空気が伝わってくる。神谷はため息をつき、俺の頭をブレザーの上から脇に抱え込んだ。 「それなら心配無用です。だってほら、」  神谷の言葉を裏付けるように、鬼ごっこ終了を告げる放送が流れる。 「アンタはよくやりましたよ」  ヘッポコの割にはね。  今日の神谷は、やっぱり俺に優しかった。
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