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一章 エメラルドの瞳
「翔―! もう朝よ?」
高梨翼は、弟の翔の部屋へ入ると、毎朝の決まり文句を口にした。
やはりいつも通り、小学四年生の弟はまだベッドの布団にくるまって、いびきをかいている。翼は肩をすくめて、翔の布団をパッとめくった。
「翔?」
と、翔が寝ぼけ眼で翼を見上げた。それから、ごにょごにょと何かを言う。
「んー……ね~ちゃん、おやつぅ~」
「ああ、もう……寝ぼけるのもいい加減になさい。今はおやつじゃなくて朝ご飯なの。とにかく、すぐ着がえなさいね。でないとホントに遅刻よ!」
そう弟に釘を刺して、翼は一階のリビングへ駆け足で降りていった。
高校のセーラー服の上にレースのエプロンをつけ、キッチンへ向かう。食パンをトースターにセットしてから、ニンジンとアスパラのソテー、そしてベーコンエッグに取りかかった。
チン!
トースターが軽快な音を鳴らすのと、着がえた翔が階段をドタバタ駆け降りてくるのは、ほぼ同時だった。
「わあああ! ねえちゃん、遅刻するーっ」
「はいはい、もうすぐできるから!」
翼は、皿に焼き上がったトーストを敷き、その上にベーコンエッグをきれいに乗せた。隅にニンジンとアスパラのソテーを添えて、出来上がりだ。
その直後、スーツをびしっと着こんだ女性がリビングに駆け込んできた。
「きゃああああ! 遅刻、遅刻するっ」
「あー、おかーさんまで寝坊なんて」
はあ、とため息をつく翼。ウェーブのかかった長い髪を乱れさせながら、母・翠はすでに食卓に用意された朝ご飯に気づいて、目を子どもみたいに、きらきらと輝かせた。
「まあ、おいしそっ。さすが、翼ちゃん! いただきまーす」
「いただきまーす!」
元気な号令とともに食事を始める母と弟を見て、翼はやれやれ、と苦笑した。
無邪気にベーコンエッグ・トーストをほおばる母はこう見えて、学芸員。つまり博物館の職員で、資料収集や調査研究などを仕事にしている人だ。
ここ、美羽矢の町には博物館、特に自然史系博物館が数多くある。
その理由はおそらく、美羽矢町を取り囲む山々にある。この辺りの山では、昔からさまざまな化石が発掘されているのだ。
恐竜の化石だって、例外ではない。その影響からだろう、山の名前も『飛竜山』『竜神山』『水竜山』などなど。
昔の人は、恐竜の化石を見て、想像上の生き物・竜だと思ったのかもしれない。
美羽矢町に多いのは博物館だけではない。明治から大正にかけての洋館も、数多く残っていた。当時、ヨーロッパからやってきた幾人もの外国人が建てたものだという。
現在では重要文化財や、資料館として使用されている建物が多い。しかし中には、今もヨーロッパ人の末裔が住んでいる館があるらしかった。
「い、いってきまーす!」
ハイスピードで歯磨きをし終えた翔が、ランドセルを背負って走っていく。
続いて母も、
「じゃあ翼ちゃん、出るとき玄関の鍵ちゃんとかけといてね!」
捨てゼリフのように言い残して、突風のごとく出ていった。
翼は本日二度目のため息をつき、玄関の置時計に目を向ける。
「やだ、わたしが遅刻しちゃうっ」
真っ青になりながらエプロンを脱ぎ捨てた。二階の自分の部屋へ駆けこみ、ブラシで手早く髪をとく。
それから、かわいいチェックのクッキー缶を棚から取り出して、蓋を開けた。中には、お気に入りのヘアピンのコレクションがいっぱい入っている。
(今日はコレにしよ)
ハート型のヘアピンを選んで、左耳の上にパチン、ととめた。栗色のショートボブに、赤いハートがアクセントとしてきいている。
鏡で確認してから、はっと顔を上げた。
「いっけない、忘れるとこだった」
そうつぶやいて、机の引き出しから取り出したのは、小さなお守り袋。
緋色の生地に金糸の刺繍がほどこされたもので、長い紐がついている。それを首にかけ、セーラー服の胸元に落としこんだ。
通学カバンを肩にかけ、玄関の扉を勢いよく開けた。もちろん鍵も忘れない。
「いってきます!」
誰もいないことなど気にかけず、翼は高らかに言って我が家を後にした。
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