一章 エメラルドの瞳

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「えっと、もしもーし……もう朝のホームルーム始まってますよー」  ……反応なし。むむ、と翼は腕組みをする。これはなかなか手ごわそうだ。朝の翔なみ、いや、それ以上かもしれない。  少年の寝顔は本当に、幼子のように無邪気だった。  長いまつ毛が、頬に濃い影を落としている。身長はそこそこあるが、胸板はとても薄く、全体的に華奢な体つきだ。  照明に照らされて、漆黒の髪と白い肌が光っている。眠っている姿が白雪姫みたいだな、と翼は感じた。実際にはお姫様ではなく、男の子なのだけど。 (本当にきれいな人だなあ)  改めて感心してしまう。  そうやって、まじまじと眺めていたら……ぴくり、と少年のまつ毛が動いた。ぎくっとした翼が視線をそらすよりも早く、その目は開かれてしまう。  あのエメラルドの瞳が、一瞬宙をさまよった後……翼を捉えた。と同時に、スゥ、と細められる。  寝起きのせいか、うるんだ瞳が光を集めて乱反射させた。身体を横たわらせたまま、彼はとろん、とした笑みを浮かべる。 「ああ……君か。どう、膝は? もう、痛くない?」  若干ろれつの回っていない、澄んだ声で尋ねてくる。どきり、と翼の胸が一つ、音をたてた。膝なんかよりも心臓が痛い。同じ「無邪気」でも、翔の寝起きの顔と全然違う。  少年の瞳の緑はまるで、何か得体のしれない力を秘めているかのようだ。見つめられると、催眠術にかかった気分になってくる。  その瞳で上目使いは反則だ。 (お、落ちつけ、わたし!)  この緑に惑わされてはダメだ。いや、この人にそんなつもりは微塵もないのだろうけど。とにかく、まず、すべきことは……そう、お礼を言うことだった。 「け、怪我は大丈夫です。あの、さっきは助けてくれて、ホントにありがとうございます」  律義に頭を下げる翼に、少年は上体を起こしながら静かに訊いた。唐突に。 「君、見た?」 「は?」  何を、と言いかけた翼は、今度は別の意味でどきり、とさせられた。緑の光がナイフのように、翼を一突きする。その表情が妙に大人びていて、怖い。  突如、翼の脳裏に、あの車の不思議現象が思い浮かんだ。  見たって、もしかしてあのこと? 「見たよね」  今度の少年の言葉は、質問ではなく、確認だった。 「あのときは仕方のなかったこととはいえ、着任早々、大変なミスを犯してしまった……絶対、人に見られてはならなかったのに。以後、気をつけるようにしなくては」  どこか憂うような顔つきでブツブツつぶやく。  この人は何を言っているのだろう。ますます訳が分からなくなる翼に、いきなり、少年が顔を近づけた。 「なっ!?」 「そういう訳で、消させてもらいます」  彼の唇が不穏な言葉を紡ぐ。 (ど、どういう訳で!?)  大声で問いたいのに、喉からはかすれた音しか出ない。黒豹に見据えられたような気分。それほどまでの威圧感が彼にはあった。まぬけな寝ぼけ眼をしているくせに。  逃げなきゃ。  本能がそう告げて、実際に踵を返しかけた翼の肩を、少年がつかむ。そのままベッドに素早く押し倒されて、翼は凍りついた。  眼前には、エメラルドの双眸。 「逃げないで」 「ひっ……!」  冷静に命令されて、翼は震えた。ダメだ、逃げられない。
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