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少年は空いた方の手を上げた。
その中指には、緑の石が飾られた銀の指輪が光っている。彼の瞳と同じ色の宝石、エメラルド。
それが、翼の額にこつん、と当てられる。少年の顔が更に近づく。反射的に目をぐっと閉じる翼の耳元で、彼はささやいた。
「記憶、消去」
突如、翼の脳内を真っ白な閃光がほとばしった。小さな稲妻が頭の中を通りすぎたようにバチッ、としびれる。
「きゃ……!」
ほんの一瞬、意識を失った。力の抜けた翼の体がマットレスに沈み込み、少年の掌が少女の頬にいたわるように触れる。
……数秒後、ゆるゆると、翼の両目が開いた。
「わ、わたし……?」
「大丈夫?」
翼は目じりをこすった。少年の心配そうな顔が、自分を覗き込んでいる。ぼうっとした表情で見返したら、こう説明してくれた。
「どうやら貧血を起こしたみたい……体に力は入りそう? 一度、座ってみようか」
彼は翼の背中の後ろに腕をまわし、ゆっくりと上体を起こさせる。それから、子どもにするように、背中を優しくなでてくれた。
「気分はどう? 水でも飲む?」
「だ、大丈夫」
一体、何が起こったのだろう。
おでこに手を当てていたら、しびれた頭が徐々にすっきりとしてきた。それと同時に、記憶が鮮明によみがえっていく……
「とても申し訳ないけど、僕はもう行かなくては……一人で教室に行ける?」
びくっと、翼は肩をゆらして相手を見上げた。
おっとりとした緑の瞳はいかにも親切で、誠実そうで……ぞくりと鳥肌が立った。
がくがくと首を縦に振る翼に少年は品よくほほ笑んで、去り際に言葉を贈った。
「では、機会があればまた。お大事に」
保健室の扉が、閉められた。
彼が完全にいなくなったのを悟ってから、翼はやっと、肩の力を抜いた。まだ腕には鳥肌が立ったままだ。
「なに、あの子……」
そうつぶやく自分の声は、ひどく震えて頼りない。
おかしなことをされたのは、確かだった。
手品なんてものではなくて、催眠術? 超能力? もしくは……とにかく、そういう単語でないと説明できない。普通の人間にできるわけがない、あのような真似。
翼は深呼吸をして考えを巡らす。
先ほどあの子は、自分の耳元で「記憶、消去」とか言っていたような。その「記憶」は間違いなく、自動車不思議現象のことだろうけど、でも。
「わたし、覚えてる……」
翼は口に出してつぶやいた。
間違いない。はっきりと覚えている。あのときの、一時停止のボタンを押されたような車の動きを。他のことも、何一つ忘れていない……多分。
得体のしれない冷たいものが、翼の背筋をはい上がる。意味もなく不安にあおられて、気づいたら胸元のお守り袋を服の上から握りしめていた。
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