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私は今崖の上に立っている。
1人ではない。私と、私と抱き合う女性の2人で立っている。
山から谷底へとビューと吹く風は彼女の月光に照らされた薄いピンクのスカートをゆらゆらとはためかす。
その風に私の体が揺れるたびに、足元の小石をパンプスがコツンと蹴飛ばして、カランカランと谷底へ落ちる。
昼であれば絶景であろう大自然も、夜には月の光すら飲み込む大地の大口にしか見えない。
だが今の私たちはそれを望んでいた。闇に飲み込まれることが救いと思っていた。
私たちは理解されないことの悲しみに耐えかねた。
私の知る誰よりも純粋な想いは世間体という見えない化け物によってたやすく否定された。
会うことすら禁じられて、けれど力のない私たちは言われるがまま。
私はこの世の中で過ごして行く自信をなくした。
だから2人でここへきた。しかし...
「ここから飛び降りれば...死ぬのよね」
彼女が風にさらわれそうな声でそう話しかけてきた。
「うん、そうよ。以前明るい時に来たことがあるのだけれど、ここはずっと前に地震が起きた際にできた裂け目で、300メートル以上の高さがあって」
昼間の谷底を見たときの、思わず身を任せそうな感覚を思い出し、震えそうになる体を必死に抑えた。
「この谷は殆どが岩盤でできているから、クッションになるような植物もないし、夏は川ができるみたいだけど今はないから、落ちたらまず...助からないわ」
大丈夫だったろうか、私の声は。
「そっか、それじゃここで終わらせるんだね」
彼女は私を見つめた。
その目は月明かりを受けて、キラキラとしてて、決意を感じさせる。
私は一瞬、月を見てしまった。けれどもすぐ目を見つめなおした。
彼女の目には、私はどう映っているだろう。
こんなに、彼女の視線を心地悪く感じたことはない。
「ねぇ、もっと強く抱きしめて」
彼女がねだる。
「ああ、いいよ」
私たちはいつもよりもぎゅっと抱きしめあった。
彼女の背丈はちょうど私の胸あたりのなる。
だから早鐘を打つ私の心臓が聞こえないか心配になる。
「あったかい...このあったかささえあれば何もいらないよ」
そう言って彼女は私の胸に顔を埋める。
「私だって、そうだよ」
彼女の温もりを全身で感じながら、心地よい安心感に酔う。
「ねぇ、最後に...キスして」
彼女は目を閉じてこちらを向く。
いつも見ていたその顔は、闇夜にも負けないように綺麗な化粧がされていて、愛おしく感じ、私の決心がガタガタと崩れていく。
「ああ」
目を閉じ、かさついた唇をなめて潤し、いつものように口付けをする。
ただ互いをつなげるだけの、優しいキス。
それだけでも何かが満たされていくのを感じる。
飛べるだろうか、いや、飛ぶのだ。私は、彼女が望む私のまま、このくだらない世の中に別れを告げるのだ。
恐怖と決意の狭間でふらつく私は、なけなしの勇気で覚悟を決めた。
唇が離れる。
「ねぇ...」
途端、彼女が話し始めた。
「何か、隠してない?」
私は頭を殴られたような気になった。思わず崖ということも忘れ、ふらついた。
「隠してるって、何を?」
「初めてだから、うまく言えないけど。無理...してる気がする」
なぜ、なぜそうなるんだ。
私は、私は...
死にたくない。
死にたくないんだよ。
こうしていると楽しい思い出ばかり思い出すんだ。
一緒に行った喫茶店、一緒に観に行った映画、一緒に行った旅行...
苦しかった、辛かった思い出の方が多かったはずなのに。出てくるのは君の笑顔ばかり。
過去の思い出だけじゃない、将来の展望だってそうだ。
都合よく皆に祝福される結婚式、どこからか現れた養子を2人で育てる日々、偶然にも同じ日に寿命を迎える2人の老婆...
そんな簡単なはずがないのに、ずっと続く保証もないのに、能天気な私はそんな妄想を振り払うことができない。
私は弱いんだ。
君の前では、強いふりをしていたけれど。
この世の中に怒りを感じ、しかしわかってもらえないことに絶望して、ここまで君を引っ張ってきたけれど。
私は今、土壇場になって震えている。
この暖かさを手放したくない。
救いようにないの意気地なしだ。
だがどうしたらいい?私は君の愛も欲しい。かっこいい私のままでなければ、君のとなりにいる権利がない。
お願いだから、教えてくれ。
そう思って彼女の目を見た。
その時、彼女の頬に、一筋の涙の跡がみえた。
なぜ、なぜ気が付かなかったのだろう。
風に紛れる声は恐れゆえではないのか。
キラキラした目は、潤んでいたからではないのか。
抱きしめ合う腕の強さは離れたくない意思の表れではないのか。
とびきりの化粧は、赤く腫れた目を隠す為ではないのか。
私はやはり最低の人間だ。
独りよがりの理由で死を選び、今度は彼女を都合よく解釈して思いとどまろうとしている。
だが、考えてみれば今までもそうだ。
私はいつも自分の好きなようにしてきた。どこへいくのも自分本位。彼女が楽しめる所だろうと押し付けがましく選んでいた。けれども彼女はついてくるときもあれば、行きたくないと伝えてきたこともあった。
その時、私の中で今までの私が弾け飛んだ。
わかっていたはずだ、彼女は私にはもったいないほど、いい女性だ。
私は彼女から身体を離し、両肩に手をかけた。
「無理なんか、してないよ。ただ嘘をついていただけ」
「嘘?」
「ああ、だから今からほんとのこと、話すから」
彼女の肩から手を離し崖に歩み寄る。
「あっ、待って」
そして崖に腰かける。
「さあ、こっちへきて」
そうして2人は死の淵で並び腰掛けた。
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