プロローグ

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プロローグ

※この物語には薬膳の知識を用いた飲食物が出てまいりますが、医薬的効果を謳うものではございません。あらかじめ了承下さい。 ===================  スマホを解約した。  差し出したスマホにはむざんな蜘蛛の巣が張り巡らされ、内部の部品は大きくめくれあがっている。  どう見てもただの落下が原因ではないそれに、店員は怪訝な表情を浮かべる。  対して目の前に座る客──桜良日鞠(さくらひまり)は、心底晴れ晴れとした心地だった。これで、先日退職した元勤務先とは完全に縁が切れる。  短大卒で勤め始めたウェブデザイン会社には、六年在籍した。絵の仕事に加えて、社員寮があるのが魅力的だった。  勤務内容のほとんどが絵とは無縁の雑務でも、上司のセクハラ・パワハラ・アルハラのハラスメント三拍子が揃っていても、粛々と勤めをまっとうしてきた。  転機が訪れたのは、ハラスメント上司が日鞠の後輩女子に、異様な執着を見せはじめたころだ。  困惑する後輩姿を見るたびに上に掛けあい、日鞠のスマホには送信者不明のメールが届いた。 『男性上司の興味を引けなくなったのは、自分に魅力がないからに他ならない。子どものような言いがかりをつけないことを求める』──日本語が通じない日本人もいるのだと、身の毛がよだつ思いをした。  そして一ヶ月前、ハラスメント上司が後輩を襲った。  虫の知らせで現場に居合わせた日鞠は、まぶたを下ろし身を横たえる後輩と、彼女にのしかかる犯罪者の姿を見た。  気がつけば、オフィスの壁により掛かっていたパイプイスを振り上げていた。  今思えば、相手が石頭で本当によかったと思う。幸か不幸か、上司は軽い脳しんとうで済んだ。  ハラスメント上司が上層部の親戚筋だということもあり、事件は闇に付された。そして、扱いの面倒な目撃者である日鞠はくびを切られた。  今までの悪行も含めて徹底抗戦するつもりが、別の上司に耳打ちされた言葉が痛かった。 「被害者の彼女は眠らされて、当時の記憶はないんだろう。下手に騒げば、彼女が勘付くんじゃないか」  結局、ハラスメント上司を別の支所に移すことを条件に、日鞠は退職をのんだ。  ぎりぎりまで恨みつらみのメールを受信していたスマホも手放した。市役所での諸々の手続も済ませている。  もうこの地にとどまる理由は何もない。 「よし。北海道に行こう」  立ち寄ったファミレスの手洗い場。鏡に映り込む童顔に長い黒髪の冴えない顔に、パンと両手で活を入れる。  世間では新学期が始まったばかりの、四月中旬。  キャリーバッグとショルダーバッグに荷物を詰めこみ、日鞠は安住の地を求めて北の地へ向かった。  頼れる親戚や知人がいるわけではないが、問題ない。  日鞠にはどこにも、頼れる存在なんていないのだ。
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