第二話 五月、幼女の恋と花粉症

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第二話 五月、幼女の恋と花粉症

 遠くにアラームの音を聞き、まぶたを開く。  白い天井に焦点が合う。この光景もだいぶ慣れてきたなと感じながら、日鞠は上体を起こした。  この部屋に住み着いて五日目目の朝。  部屋の窓は南東向きらしい。朝から出勤までの時間帯が一番日当たりが良く、起き抜けはいつもすっきり目が覚めた。  移住を決めた当日に取り急ぎ現品購入した、テーブルと布団一式。数日前の昼に届いた家具も追加され、ようやく人の部屋らしい装いが成り立ちつつあった。 「孝太朗さん、もう起きてるかな」  大神孝太朗──もといこの部屋の提供を了承した一人の姿を思い浮かべ、日鞠は眉間に力をこめた。  はじめてこの部屋で迎えた朝。早くも知ったのは、孝太朗は朝がすこぶる弱いという事実だった。  職場のカフェの開店時間は午前十一時。仕込み時間を考えてもさほど早起きを要求されるわけではない。  とはいえ、気づけば時刻は九時過ぎ。引き続き動く気配のない隣人を怪訝に思い始めたとき、壁を隔てても通る大きなうめき声が響いた。  あの声は紛れもない、狼のそれだ。  まさかあの人、眠るときは狼の姿なのだろうか。むしろ人間のほうが仮の姿で、やっぱり本職は狼なのかもしれない。  野性味を爆発させた地響きに、恐る恐る自室から顔を出してみる。ぬっと視界に現れたのは、人相が限りなく黒に染まった隣人だった。獣型ではない。ちゃんと人型だ。 「お、おはよう、ございます」 「んあ?」 「あ」に濁点をつけるのはやめてほしい。  無造作に拍車が掛かったもさもさ髪。不機嫌を通り越して憎悪を浮かべた顔には、迎えた朝も驚いて引っ込んでしまうのではなかろうか。低血圧の極みを描いた男の姿に圧倒されていた日鞠に、孝太朗は何度か大きく瞬きをした。 「……ああ、お前か」 「はい。私です」 「よく、眠れたか」 「はい。お陰様で」 「そうか。俺は眠い」  でしょうね。心の中で返事をし、洗面所へ消える丸まった黒い背中を見送った。 「おはようございます、類さん」 「おはよう日鞠ちゃん。……ってすご。店内の準備、ほぼほぼ済んじゃってるじゃん」  カフェ厨房の奥に通じる裏口から、驚き顔を浮かべた類が声をあげた。  カフェ部分のモップがけ、窓ガラス拭き、カウンターおよびテーブル拭き、ソファーのコロロコ掛け。お手洗いの掃除と備品の確認。  厨房部分は主に孝太朗が取り仕切るが、中間部分の食器類をまとめた通称「シルバーかご」に大判ナプキンの上にスプーン、フォーク、ストローの一式をセッティングしておく。 「……というところまで済ませたので、類さんにあとで確認していただいていいですか?」  手元のメモ帳に指をなぞらせ、日鞠がぺこりと頭を下げる。 「了解。っていうか口調。もう少し砕けてもいいからね?」 「でも、類さんは先輩ですから」 「うん。本当は『類』って呼んでほしいけどそれは諦めた。でも固すぎる敬語は、ここでは必要ないよ」  どうやら「確認していただく」の響きが引っかかっているらしい。  腰元に日鞠と同じ深緑のカフェエプロンを巻いた類が、正面部分で愛嬌たっぷりにリボン縛りをした。 「ここはオフィスじゃない。お客さんにはもちろん敬語が基本だけど、固苦しい空気を求めてこられるわけでもない。もっと肩の力抜いてくれても全然オッケーむしろ助かる。わかった?」 「はい。わかりました」  オフィス、と言う単語に前職の名残を嫌でも感じてしまう。  がちがちの上下関係と確かにはびこっていた男尊女卑。住所や連絡先を断ち切ってもなお自分の内部に残っているのだと考えると、胸が悪くなる。  人間の細胞は、日々少しずつ入れ替わるとどこかの書籍で読んだことがある。自分のその部分の細胞が消えてなくなるのは、果たしていつになるんだろう。 「それにしても、孝太朗は相変わらず朝弱いなー。まさか起きてないってことはないよね?」 「大丈夫です。さっきも廊下で挨拶しましたから」 「そっか。仲良くやれてるみたいでよかった。幼馴染み目線でも、あいつなかなか頑固なところあるからさ。大家として少し気にしてたんだよねえ」  このカフェ店舗を含め二階の居住スペースも、実は全て類自身の所有建物だった。  話を聞いたとき、「二十歳になった辺りからかな。俺のじいちゃんが、大きな荷物を定期的に押しつけてくるようになったんだよねえ」と類は笑っていた。もしかしたら類は、普通にお金持ちの家柄なのかもしれない。 「家のことで不便が出たら、いつでも話してね。秒で解決してみせるからさ」 「ありがとうございます。……あ。そういえば不便とかじゃないんですが、類さんに聞きたかったことが」 「なになに? なんでもお兄さんに聞いてみなさい」 「廊下の突き当たりの奥に、扉がありますよね。あの部屋は、その、やっぱり入らない方がいいんでしょうか……?」  思わず声を忍ばせる日鞠に、類は何か察したように頷いた。 「そう思うのは、何か理由があったりする?」 「類さんだから話しますけど……実は孝太朗さんが、時々あの部屋に入っていくのを見かけまして」  初日に部屋を案内されたときも、奥の部屋については何も触れられなかった。  その存在に気づいたのは、越してきて数日後の朝だ。  奥の部屋から出てきた孝太朗と、手洗いから出た日鞠がちょうど鉢合わせたのだ。きょとんと目を見張る日鞠に、孝太朗は何事もなかったように「おう」と残して自室に消えた。 「類さんは、あの部屋に何があるのか知ってるんですよね?」 「知ってるは知ってるけどねえ……こればっかりは直接、孝太朗に聞いた方がいいかも」 「……はよ」  奥の戸が開く音がする。  カウンターの向こうから現れた長身の黒い影に、日鞠は反射的に類から身を離した。平静を装いつつ、本日二度目の「おはようございます」を告げる。  孝太朗から見えない角度で、類が日鞠にウィンクを飛ばした。 「おはよ、孝太朗。通常通りの重役出勤だねえ。無精ひげ、残ってない?」 「残ってねえよ。てめえは俺の女房か」  嫌そうに顔をしかめた孝太朗が、類の視線を手で払う。  水と油。陽と陰。アイドルとそのマネージャー。  二人を眺めるたびに思いつく比喩のストックは、日に日に日鞠のなかで増殖しつつあった。  そしてその比喩の最後にたどり着くのは決まって──狼と狐。  比喩でもなんでもない二人を表す言葉。それを思い起こすたびに、初対面の日の出来事まで一気に記憶を遡る癖ができた。  あの出来事って、私の作り上げた夢じゃないよね。  というのも日鞠が北の大地に降り立った日以降、二人があやかしを匂わせる出来事は全く起こっていないのだ。  無愛想でいつもまぶたが重そうなカフェ店長と、明るく人懐こいイケメン店員。  多少個性が濃いものの、人間的要素を疑うポイントは何一つない。強いて挙げるとすれば、毎朝部屋まで届く孝太朗さんの獣を思わせるうめき声くらいだ。 「日鞠」 「っ、あ、はい」 「お前、土日働くのは今日が初だろ」  気づけば孝太朗はエプロンを身につけ、フロアに立つ日鞠を見下ろしていた。その距離は、思いのほか近い。  さりげなく一歩後退しながら、日鞠はこくりと頷いた。 「今日は天気もいいし客足も伸びる。サイドメニューは昨日と同様。何かわからないことがあれば、迷うより先にこっちに振れ」 「はい、わかりました」  十一時きっかり。  さあ、今日も開店だ。
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