第一話 四月、狼と生理痛

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第一話 四月、狼と生理痛

 飛行機から搭乗橋に下りると、ひやりと涼やかな空気が頬を撫でた。  北の玄関口といわれる新千歳空港。同じ空港内のはずが、二時間弱前にいた羽田空港とは何もかもが違っていた。  息も着かせないほどのせわしない人とモノの流れはなく、心地のいいペースで港内を歩みを進めることができる。  ああ、違う土地に来たのだ。日鞠はかみしめるようにまぶたを閉じる。  苦手な手荷物のピックアップも奇跡的にスムーズに終え、高揚する胸に促されるように案内所に直行した。  この勢いのままに、目指すべき町を見つけることができれば──。 「誠に申し訳ございません。こちらの資料では、お客さまがお探しの市町村を特定するのは難しいかと……」 「……はは。ですよねえ」  パソコンや資料との格闘の末、申し訳なさそうに案内所の女性が頭を下げた。合わせ鏡のように日鞠も頭を下げる。  日鞠には、この地に頼れる人はいない。「今」は。  人生の大半を東京で生きた日鞠だったが、実は五歳になるまでは北海道で過ごしていた。  両親を早くに亡くし北海道の祖母のもとで育った日鞠は、不幸とはほとんど無縁だった。町を守るように包み込む森と、きらきら眩しい川の水、喉を透く涼やかな空気。  幼い記憶に残る、あの町に行きたい。  きっとあの町なら自分を迎え入れてくれる。そんな一抹の希望だけが日鞠を突き動かしていた。 「こんな子どものお絵かきだけじゃ、そりゃ町を特定なんてできないよね」  近くのベンチに腰を下ろす。手にしていた古いスケッチブックを眺め、ため息に似た笑みを漏らした。  中に描き溜められていたのは、幼い頃の自分が描いたあの街の絵だった。  あの町の自然の風景や笑顔の人々が、水彩絵の具やらクレヨンやらで子どもながらに描かれている。  日鞠には、このころの写真が一枚もない。だからこそ、写真代わりのこれらの絵一枚一枚が宝物だった。たとえ二十年前の風景だとしても。  何層にもめくりあがっている色あせた表紙の角。労るように撫でた途端、みるみる感傷の海に沈んでいく。 「あー。どうしてスマホをかち割っちゃったかな、数日前の私」  スマホを持たない旅が不便とは予想していた。ただ、ここまでとは。  飛行機の予約。宿泊先の手配。まさにこの町探しひとつにしても、ウェブ検索が一番有効だろう。  ハラスメント上司のメールを絶つだけなら、アドレス変更でもよかったのではあるまいか……。  今さら降ってきたもっともな考えに、日鞠はがくりと肩を落とした。どうやら六年分の鬱憤が、正常な判断を狂わせたらしい。もう大人なのだから衝動的な行動は控えなければ。  際限なく落ち込んでいきそうになり、日鞠はそっと自分の両の手を開いた。  左右十本の指の腹にもれなく刻まれ、今も残る傷跡。幼い自分が必死で誰かを助けた証し。 「……よし。力出た!」  いずれにせよ、このまま空港で寝泊まりするわけにはいかない。ショルダーバッグにスケッチブックをしまい、日鞠はベンチから腰を上げた。  案内所の女性に控えめな提案を受け、ひとまずは北海道の中心都市・札幌駅へと照準を向けることにする。 「さっきのお姉さん、札幌まで普通列車で一時間弱って言ってたっけ」  快速エアポートだと三十七分。宿の確保と沿線風景の観察を天秤にかけた結果、後者が勝った。  JR改札を抜け、ちょうど発車待ちだった普通列車に乗り込む。  東京で見慣れた対面式の長椅子とは異なり、進行方向に向けられた座席に一瞬虚を突かれた。選び放題の空いた車内にそわそわしながら、優先席マークのない一人席に腰を下ろす。  これはいい。窓の風景を眺めながら、これからどう動くかをゆっくり考えるとしよう。  乗客が数人同じ車両に乗り込んだのを見届け、電車が緩やかに空港をあとにした。  地下鉄を思わせるトンネルを抜けると、広がるのは草原をかける車道とまばらな建物だった。工場のような無機質な建築物が、次第に色彩をそえた住宅地へと移っていく。  アウトレット商業施設が付随している南千歳駅。心地いい人の暮らしが浮かび上がる千歳駅。都市の喧噪を抜けて町並みが穏やかな長都駅。線路脇を木々が並ぶ無人駅のサッポロビール庭園駅。大きな宿舎と凜とした住宅街が広がる恵庭駅。鮮やかな花壇の色彩が届く恵み野駅。昔ながらの静かな街並みが迎える島松駅。  なるほど。どうやらこの路線は、人の生活の温もりと木々の深い緑が交互に見える仕様らしい。  根拠のない発見にふむと頷いたあと、漂ってきた気配にじわりと瞠目した。 「ここ、は……?」  ショルダーバッグにしまっていたスケッチブックを慌てて取り出す。一気に心臓から噴射された血流が、頬に赤みと熱を集めていった。  嘘だ、こんな、お伽話みたいなこと。  疑念と確証が一緒くたになって、日鞠の心を激しく揺さぶる。  ここだ。日鞠は思った。今まさに目の前に広がる、木々の生い茂る風景。確証はないものの、この景色が記憶のそれと酷似していた。  衝動的な行動は控えなければ。さっき唱えたはずの自制の言葉に、心の中でごめんなさいと頭を下げた。勘違いなら、後続の電車に乗り込めばいい。  間もなくして駅に滑り込んだ電車が、なだらかに停車する。慌てて日鞠は大きなキャリーバッグを引っ張りあげ、電車を飛び降りた。 「上広島(かみひろしま)駅……?」  下りた駅名は、覚えのないものだった。  しかし希望を捨てきれず、そのまま乗ってきた電車に背を向ける。  緊張しているからか息が上がっていく。重いキャリーバッグをエスカレーターに乗せ、大きく呼吸を整えた。  やけに重い体を引きずり改札を抜け、ガラス扉をぐっと押し開けた。 「……うわあ」  明るい駅構内。自然と上向いた視界には、ガラス張りの天井が広がっていた。屋内にもかかわらず青空が透けて、春の淡い日の光が差し込んでいる。  同時に、記憶の中にある風景がどこにも見当たらないことに愕然とした。  二十年経つんだ。風景なんて変わって当然だ。そのまま残っているなんて、それこそお伽話じゃないか。  体が異様なほど重く、熱くなっている。足下がふっとおぼつかなくなり、慌てて傍らの手すりにもたれかかった。  耳の奥で砂が斜面を滑るような雑音が響き、おなかがぐっとつかまれる感覚を覚えた。日鞠の小柄な体が、くの字に折れ曲がった。まずい。吐きそうだ。 「──あ? つまずいたのか」  頭上から届いたのは、気怠げな低い声だった。  床に両手をついたまま動けずにいる日鞠は、構内で転んだそそっかしい女と判断されたらしい。  面識のない人間へ愛想笑いを浮かべることもままならない。にじむ汗の冷たさと重い頭を抱え、目眩の波が引いてくれるのを待つ。  全力でかき集めたはずの酸素は、か細く力ない二酸化炭素にしかならない。なんだっけ。この感覚、前にも経験が。 「おい」  まだいたのか。やさぐれた言葉を胸中で吐き出した瞬間、なにかの温もりが背中をふわりと覆う。  視界を細く開いた。床につく誰かのひざを確認し、重い視線を徐々に持ち上げる。  泥のついたスニーカー。装飾のない黒っぽい身なりに、肩にゆったり掛かるザンバラな長髪。  無彩色に包まれた人物の手に抱えられていたのは、鮮やかすぎる新緑の草花だった。  花束ではない。あえて言うなら草束。野草らしい緑色の山に、小さな花もそっと身を寄せている。  ──あ、懐かしい。  瑞々しく青い香りが、鼻腔をくすぐった。
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