第三話 八月、祭ばやしと眼精疲労

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第三話 八月、祭ばやしと眼精疲労

 天気も穏やかで気温も徐々にあがり始める、六月の北海道。  眩しい日差しを片手で遮るように歩いていた日鞠は、上広島駅と向かいあう施設、芸術文化ホールへと入っていった。  石壁で包まれた玄関口が、少しひんやりした空気で迎える。すぐ横にある自動ドアの先に広がるのは、温かな木の温もりと数え切れないくらいの蔵書──上広島市図書館の本館だった。  入ってすぐに見えるカウンターでは、親しみ溢れる笑顔で職員が挨拶をしてくれる。右手には子ども用の絵本やベビールームがある児童コーナー、左手には一般閲覧コーナーがある。さらに階段を上がった二階には読書室、会議室、視聴用サロンなどが利用者を出迎える、面積にも利用内容にも恵まれた施設だ。  仕事がない日、日鞠はほぼ毎日この図書館に足を向けていた。 「今日は予約の本が何冊かあるから、冊数を考えて本を見なくちゃね」  自制するための呟きも空しく、日鞠の手にはすでに抱えるほどの本が積まれている。  本は好きだ。自分が今まで知らなかった、他人の考えや知識に触れられる。それだけでわくわくが止まらなくなる。  今の日鞠の目下の関心は、薬膳についての書籍だ。  薬膳カフェに勤めるからには、という理由で購入した一冊の関連本。それに端を発し、いまや日鞠はちょっとした薬膳オタクと化していた。薬膳と書いている書籍は、片っ端から手に取っていく。そうして新たに加えられる発見がとても嬉しいのだ。  カウンターに向かうと、職員の女性が丁寧に本の背表紙を揃えてくれる。  バーコードを読み込まれた貸出カードは、この上広島市に住所を持たなくても人が作成できるらしい。  それでも、自分はこの街の住人なのだ──このカードがそう証明してくれている気がして、手に取るたびにほんのり温かい。免許証には感じない、このカードだけの不思議な力だ。 「ご予約の本が届いています。今日貸し出しの本は、全部で九冊ですね」 「はい」  予約の本のいくつかが想像よりも厚く、少し怯みそうになる。でも大丈夫。自宅までは歩いて五分とかからない距離だ。 「わっ」  貸出カードを差し出した手が、誤って本の山を弾いてしまう。慌ててカウンターから出てこようとした女性を、日鞠は笑顔で制した。  カウンター外になだれを起こしてしまったそれを拾い集めていると、ふと目の前が薄く陰る。白く長い指が、最後の書籍を静かに拾い上げた。 「どうぞ」  わ、いた。  以前カウンター奥から聞こえた可愛らしい名が頭に残り、すっかり覚えてしまった──「アリスさん」だ。  図書館職員の一員である彼女は、恐らく日鞠のことなど気に留めてもいない。  細いフレームの眼鏡の向こうにある、宝石のように澄んだ瞳。真っ白な肌にさらさらのストレートヘアは、首にかかるほどの長さできれいに切りそろえられている。  お伽話を思わせる名前とは対照的な印象の彼女は、表情筋を一切動かすことなく日鞠に書籍を手渡した。 「あ、ありがとうございます」 「気になさらないでください。仕事ですから」  言い残すと、有栖はきびすを返して行ってしまう。  なにか言いたそうにするカウンターの女性に再度笑顔を向けた瞬間、聞いたことのある音色が日鞠の耳をかすめた。  あれ、この音は──。 「変な声が聞こえたと思ったら、お前か」  促されるように振り返ると、意外な人物が立っていた。
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