第四話 九月、お家騒動と精神安定

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第四話 九月、お家騒動と精神安定

 周囲に生える葉が、日鞠の肩の高さまである。  時折葉先が肩を擦る。日鞠は構わず歩き続けた。  助けて──誰かがそう呼んでる声がする。自分にしか聞こえない。私に呼びかけてるんだ。  鬱そうとした緑を分け入るように進み、見えてきたのは声の主。赤黒く染まった光景に、思わず身がすくむ。  今までならば日鞠の祖母が助けてくれただろう。しかしもう、祖母はいないのだ。 「待っててね。今、助けてあげるから」  祖母の口真似だった。いつもこうして、動物やあやかしを助けてあげていた。  捕らえられた小さな手をこれ以上痛めないよう、慎重に鉄のかたまりに手を伸ばす。力を込めた。びくともしない。でもやるんだ。誰でもない。私が。 「──っっ、はず、れろ……っ!!」  目を覚ますと、見慣れた自分の部屋だった。  ぐっと詰まっていた空気に気づき、ゆっくりと室内に放っていく。少し驚いた。あの出来事の夢を見るのは、もう何年ぶりのことだろう。  日鞠の祖母が亡くなり、すぐに遠戚に引き取られるのが決まった。夢の出来事は確か、引っ越しの前日のことだっただろうか。  見上げる天井に、自らの両手を割り込ませる。  十本の指先に刻まれた──古い傷跡。  日鞠を引き取ることが決まった遠戚にこの傷を見せたときは、酷く心配されてしまった。閉院直前の病院に駆けこみ、傷口の手当てやら点滴やらを受けた。随分大事になってしまったと反省したのを、今でもうっすら覚えている。  あのときは医者は「まだ子どもですから、きっと傷もじきに消えますよ」と宥めるように言った。青い顔をしていた遠戚は、安堵のため息をついていた。  結局、二十年経った今でもこうして残っている。 「……うん。残ってくれて、よかった」  この傷跡がある限り、あの瞬間の自分を思い出せる。  頑張ったねって、目一杯に自分を誇りに思えるから。 「おはよう、日鞠ちゃん。今日もいい天気だねえ」  朝準備を終えて店舗に向かうと、すでに類が店の準備を進めていた。 「早いですね、類さん。私も今日は、気持ち早めに降りてきたんですけど」 「ちょっと目が冴えちゃってさ。やることのないし退屈なんで、さっさと出てきちゃった」  そのとき、日鞠はおやとあることに気づいた。いつも類のこめかみに止まっている赤いピンがないのだ。  何の気なしに尋ねようとして、やめた。大人の関係の女性の元に忘れてきた……なんて返されたら、朝から反応に困ってしまう。 「はよ」 「あ、孝太朗さんも、今日は早かったですね」 「ああ、こうも暑いとな」 「だよねえ。まあそれでも毛皮がないぶん、まだましかな」  店内の掃除機をかける類に、孝太朗が真っ直ぐ近づいていく。日鞠が問いかける前にその手は類の首根っこを捉えた。 「ちょ、え、孝太朗さんっ?」  慌てて二人の元に駆け寄る。また類がなにか、洒落にならない悪戯でもしかけたのだろうか。  垣間見えた孝太朗の表情に、怒りの感情は浮かんでいなかった。 「きついのか」 「うーん、ちょっとだけ」  掃除機の音が切れ、辺りに静けさが落ちる。  きつい? どういう意味だろう。日鞠の頭に疑問符が沸くなか、「でもまあ、大したことないから」そう言って掃除機を持つ類が、いつもの笑顔で用具箱に戻しに行く。  少なくとも日鞠には、そう見えた。 「っ、く……」 「類さん!」  戻ってきた類の体が突然力をなくし、床に崩れていく。  孝太朗と日鞠の腕が、同時に体を支えた。  服越しでもわかる。類の体は、まるで燃えるように熱かった。 「さっきはごめんねえ。女の子に体を支えてもらうなんて、イケメン失格だよ」 「軽口はいいですから。しばらくはこの部屋で、ゆっくり休んでいてください!」  背負われた類は、二階の孝太朗の部屋へと運ばれた。  手早く布団を用意した孝太朗が、類の体を乱雑に放り込む。日鞠にあとの世話を任せ、孝太朗は一階へと戻っていった。布団からこちらを見上げる類の顔は、笑っていた。 「驚かせちゃったね。でも大丈夫。いつものことだから」  類の誕生日は九月十四日。  それが関連するのか否か、決まって誕生日前になると体調を崩すのだという。  咳も鼻水もなく、風邪というわけではないらしい。体が熱をため込んで放出することもできず、ただただ苦しさが溜まっているようだった。  今日は九月十二日。今日と明日が過ぎるまで、この原因不明の体調不良が続くと言うことか。 「ひとまず、お水を飲んでください。すみません、スポーツドリンクみたいな気の利いたものがなくて」 「謝ることないよ。冷たい水で十分。むしろ迷惑かけてるのはこっちのほうだ」 「迷惑なんかじゃありませんよ。だって仲間じゃありませんか」 「……仲間?」  きょとんと復唱する類に、日鞠もきょとんとしてしまう。 「え、と。仲間ですよね? 職場仲間っても言葉ありますし。いや、友達? ちょっと気安すぎますかね……?」 「……はは。少し、元気出た」  布団から伸びてきた手のひらが、そっと日鞠の頭を撫でる。 「仲間もめちゃくちゃ魅力的だけど、欲を言えば友達がいいな。その方が、親しみがあっていいよね」 「そうですね。類さんがよければ、私も嬉しいです」 「……孝太朗も、日鞠ちゃんの友達?」  返事に窮する質問だった。  類が笑う。反応を知っていたような、意地悪な笑みだった。 「なーんてね。最近の日鞠ちゃん、妙に俺に当たりが強いみたいだからさ? ちょっとだけ仕返し」 「っ、もう。当たりを強くしてるつもりなんてありませんよっ」 「ん、わかってる。浮ついてる俺のこと、心配してくれてるんだよね」  ごく自然につながれた手。一拍遅れて気づいたときには、類はじっと日鞠の手を見つめていた。 「類さん?」  「……ごめんね、本当に」  呟く類が、かすかに顔を歪ませる。  日鞠の手をきゅっと握り、反対の腕で自分の目もとを覆った。口元から漏れる吐息が、心底辛そうだった。 「いいんですよ。あ、おでこのタオル、冷やしますね。今、孝太朗さんが下でなにか準備してくれているので、それで少しでもよくなればいいんですけど……」 「だね。それにしても、孝太朗には今回も最初に気づかれたなあ」  垣間見えた目もとは弱々しくも笑っていて、日鞠はほっと胸をなで下ろす。 「そうですね。私も正直驚きました。類さんってば、全然いつも通りの笑顔に見えましたから」 「本当、あいつには頭が上がらない」 「それほど、長いお付き合いってことですよね」 「そうだね。はじめて話したのが、あいつと俺が小学生のとき。同じクラスになって、隣の席になって。そのときに、すぐに気づいた」  こいつも、俺と同じ「あやかし」だ──ってね。 「あいつはもともと無愛想の塊みたいなやつだったけど、その共通点をうまく利用して、まんまと交流を持ち続けたんだよ。うざったがられることもしょっちゅうだったけどね」 「なるほど。その関係が変わらず、今があるってわけですね」  日鞠には、昔なじみで今も交流のある友達はほとんどいない。  環境が変わっても連絡が全くなかったわけではない。しかし、二十歳で転居し勤め始めた日鞠に対し、当時まだ学生だった旧友からの誘いは次第になくなっていった。 「いいですね。その関係、ずっとずっと大切にしてくださいね」 「……ん。そうだね」  ぼんやり天井を見上げながら、囁かれた声。  聞こえるか聞こえないかというほど小さく、儚いものだった。
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