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「ばあちゃん、死ぬのは怖い?」
ふあふあと、午後の微風が運んできた、金木犀の香りを招き入れようと、病室の窓を全開に解き放った。秋晴れの暖かな空がレースのカーテンを膨らませて、切り過ぎた私のおかっぱの髪をすり抜けていく。
心地よい小春日和に気持ちが緩み、一瞬だけ心より言葉が先を越したのだろう。言葉を吟味することもなく、病床に伏せる祖母に向かって不意に問いかけてしまう。
しまった。発した後に後悔した。死ぬのは怖いかなんて、無神経極まりない一言であった。相手によっては言葉の暴力にも十分なり得ると動揺するが、同時にそう大事にならないことも、実は確信していた。
なにせ、私の祖母なのだ。私の杞憂を搔き消す呆れ口調で、祖母がため息まじりに返す。
「それ訊いて、怖いと取り乱したらどうする気だったんだい?」
予想通りの満足のいく台詞に安堵し、それでこそ我が祖母と笑みをもって返事とした。死ぬのは怖いかと問う私に対して、祖母の返答は冷笑。ここまで勝手知ったる、分かりきっていたやり取りである。分かりきっているのならわざわざ言葉にする必要はなく、さらに言えば、『それを聞いてどうするつもりだったか』に対しての返答など、短絡的な私がもちろん用意していなことなど、どうせ祖母は見透かしているし、それならば祖母の返答もまた不要であったのだろう。言ってみれば、無駄な質問に無駄な返答で答えた、まったくもって身のない話と言える。
回りくどい説明では、ひどく混乱を招く言い方になってしまっただろうか。そうだな、有り体に言えば、『なにせ、私の祖母』なのだ。
「怖いよ、そりゃあ怖いさ」
それでも、人を予測するのは難しい。どんなに近しい人間でも、正解は少しずつ外れる。その小さな歪みは、やがて理解を超えた不安となり、胸を締め付け、対象の人物に対するアイデンティティの修正が完了するまで、長らく私はフリーズする。
これが私の、最大の欠点だ。
動けずにいる私を置いてきぼりにして、祖母は病室のベットから上半身を起こし、弱気な言葉とは裏腹に凛と背筋を伸ばしてみせた。
鎮痛剤のモルヒネを打ったところだとはいえ、随分としゃんとした姿は、まるで病人には見えない。いや、それでも顔色だけをみれば、頬はやつれ黒く窪んでおり、やはり堂々たる病人なのだと再確認する。死は、どうやら彼女を見逃す気は無いらしい。
末期ガン。診断が降りた時には、すでに全身に転移しており、手の施しようがなかった。施す必要もなかったが正しいかもしれない。告知にも祖母は顔色一つ変えず、治療は不要と応えた。
気丈な姿が、告知に踏み切った家族の免罪符となった。私に至っては、軽はずみな暴言を招く甘えとなっていたのかもしれない。
自分の死すら客観視する祖母であったからこその問いかけだっただけに、『死ぬのが怖い』との答えには少なからず動揺する。
「動揺が隠しきれないと言った顔だね。
死について、頭で分かったつもりでも、心で理解できていないようだ。
あんたは頭でっかち、早い話がガキだってことさ」
見透かしたような、あの目がどうも気に入らない。ああ、からかわれたんだと、むっとして、軽く舌打ちする。そんな私の悪態を笑い飛ばし、馬鹿になどしてない、誤解だと弁解した。
「あんたに死を教えられる。
そう思えば、私にもまだ利用価値があるかなと思ってね」
「せめて、存在意義にしようか。ばあちゃん」
そこそこ本気であった私の言葉に、また訳の分からないツボがあったらしく、祖母は年甲斐もなく大笑いする。
一通り笑い終えた後、ベッド横に備え付けられた引き出しから、洋菓子の缶を取り出した。神戸の老舗洋菓子店のロゴがでかでかと目立つ。確か中には、クッキーが入っているはず。
「残念、中身はもう平らげ済みだよ。
確かあんたも食べたろう?
今は封書入れに使ってる」
別に期待などしていないと頬を膨らませる私に、祖母は山盛りの手紙の入った缶を差し出した。ご丁寧に切手まで貼り付け済みだか、私はヤギでもないので、これは食えなさそうだ。
「死ぬのは怖い。一番怖いのは、自分の死をちゃんと伝えられるかだ。誤解なく、滞りなく。それが何より気がかりだよ。
だからこれをあんたに預けておく。私の死後、四十九日が過ぎてから、これらを投函して欲しい」
手紙には私の全く知らない名前ばかりで、中には外国人の名前すら見つけた。
この手紙の数だけ、祖母の人生が詰まっている。
「『前略 私は死にました』とでも言うの?
お先に失礼しますって?」
「馬鹿っぽく言うとそんな感じだね。
言いたいのはお別れではなく、感謝だよ。
人生の価値は、心からありがとうと言える人を何人見つけるかで決まるもんさ」
命あるうちに伝えないのが祖母らしい。人に迷惑をかけることを何より嫌う祖母だから、手を煩わすような事はしたくないのだろう。どこかの空へとそっと手を合わせてくれれば、それで十分満足だと。
それはきっと間違っている。会いたいかどうかは、手紙の先の人物が決めればいいのだ。そんな単純なことほど、歳をとるにつれ分からなくなるものかもしれない。
幸いにも、私はまだ若い。
「ばあちゃん、死ぬのは怖い?」
「もう一度訊くとは、あんたもこの先苦労しそうだね。
なんだって初めては怖いもんだ。この歳になってもまだ初めてが残ってることに、逆に感謝もするよ」
それは流石に強がりだろうと思いつつも、それを告げるのは私でも野暮と心得て、笑みのみを返した。
面会を終えて病室を後にする。玄関口を出て振り返り、祖母の病室の窓を眺めるが、そこに祖母の見送りはない。金木犀の香りが、相変わらずレースのカーテンを膨らませるだけ。それももうすぐ、冷めた秋空の風を嫌い閉じられることだろう。その気丈さが、なんとも寂しく思えた。
渡されたお菓子の缶。中身は、早速帰り道のポストに食べさせようと思う。
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