第三章 寮

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 目の前の信号が赤に変わったことを確認して、宗史はゆっくりとブレーキを踏み込んだ。  思い返せば、影正と大河に出会ってまだ三日目だ。だが実のところまともに関わったのは二日だ。山口に到着した日は、大河が気を失ってまともに顔を合わせていない。翌日は多くのことを語り、鬼と戦い、大河に怪我をさせてしまった。  そして今日。 『鬼の復活を阻止できなかった挙げ句取り逃がした!』 『式神を含め五人も揃っておきながらとんだ失態だ!』  草薙の言葉は、胸に深く突き刺さった。  油断したつもりはなくとも、守り切れなかったのは事実だ。大河も、御魂塚も。  あの時、術を扱えない大河がいることも、塚を守る重要性も十分理解していた。慢心はしていない。日々の術の訓練も体づくりも手を抜いていない。けれど、 『式神は、術者の鏡だと言われている』  自分で説明しながら、酷く情けなかった。椿は精一杯応戦してくれた。あれ以上長引いていたら確実に保たなかっただろうと思うほど、彼女は全力で戦ってくれた。だがそれでも、奴らには敵わなかった。  相手は正気を失った三鬼神の一人とその腹心。相手が悪かったのだと言われても、どうしても自分の実力不足を責めずにはいられない。その証拠に、椿は未だ変化できないでいる。もう、七年も側にいるのに。  無意識に、驕っていたのだろうか。  常に細心の注意を払って自らを律していても、所詮は人間だ。心のわずかな隙に無自覚な傲慢さがあるのかもしれないと思ったら、どれだけ悔しくても言い返せなかった。それなのに、 『俺はめちゃくちゃ悔しいからな!!』  大河は怒ってくれた。彼の性格からして、おそらく誰のためなどとは考えていなかったのだろうが、それでも嬉しかった。あんなにはっきりと、自分の言えない気持ちを代弁されたのは初めてだ。  不思議な奴だと思う。けれど。  信号が青に変わり、ゆっくりとアクセルを踏む。 「宗史」  不意に宗一郎が沈黙を破った。 「はい」  一瞬、ルームミラー越しに覗くと目が合った。  試される。 「この三日間、彼を見た感想は?」  宗一郎が言う「彼」は、考えるまでもなく一人を指している。前を向き直り、そうですね、と逡巡して宗史は答えた。 「素直で真っ直ぐ、真面目で優しい。感受性が高いせいか感情に流されやすく、一度関わった人間に深入りしやすい傾向があります。困っている人を放っておけない性格かと。頭より体が先に動く。単純ですが、その分とても純粋です」  単純なだけに性格も理解しやすかった。  率直な感想に、宗一郎は口角を上げた。どうやら合格点らしい。 「同感だ。私もそんな印象を受けた。良い子だよ、彼は――だが」  言葉を切ると、宗一郎は目を閉じた。 「それだけに、取り込まれやすい」  それは、宗史も危惧していた部分だった。 「彼が道を踏み外した時、私たちにとって強敵となるだろう」  大河の裏表のない性格は、人に好かれやすい。その証拠に、寮の皆も警戒した様子はなかった。何かあれば迷うことなくお互いに助け合うだろう。それに加え、宇奈月影綱の霊力を受け継いでいるため潜在能力はかなり高いとみて間違いない。彼が加われば重要な戦力になる。  だが、人に好かれやすいということは、裏を返せば人との接触が多いということだ。その分、感受性が高い大河は人からの影響を受ける機会が多くなる。悪意を持った人間からも然り。つまり、大河自身が邪気や悪鬼を生み出す可能性が高いと言える。晴明が寵愛するほどの霊力を受け継いだ大河が生み出す悪鬼がどれほどのものか、想像に難くない。 「彼は諸刃の剣だ。気を付けなさい」  宗一郎の言い回しに引っ掛かった。 「はい」  まるで、これから先も大河が関わるような、そんな言い方だった。  と、宗一郎の携帯が着信を知らせた。 「私だ。ああ、今から戻る」  この口調は母か。 「ああ、宗史も一緒だ……分かった。間違えないようにするよ」  会話の途中で宗一郎が小さく笑って、通話を切った。 「宗史、少し寄り道をしてもいいか」 「ええ、構いませんが。どうしたんです?」 「珍しく(さくら)がおねだりだ」  ぴくりと宗史が片眉を上げた。 「体調が良いみたいでね。苺のショートケーキが食べたいそうだ」 「でしたら、駅近くのカフェですね」  当然のように言うと宗史は迷うことなく進路を変更した。 「どこのケーキか分かるのか」 「もちろん。桜の好物はすべて頭の中に入っています。ショートケーキなら一件しかありません」 「……兄妹仲が良くて、父さんは嬉しいよ」 「妹を可愛がるのは兄として当然のことです」  三つ年下の妹の桜は、生まれつき体が弱い。義務教育までは保健室登校で何とか卒業したが、高校は本人自らの希望で諦めた。登下校時の送り迎えや、万が一の時のことを考えたのだろう。今は通信制で学んでいる。  友達と遊ぶことも、遠出することもできない彼女にねだられれば、苺のショートケーキの一つや二つ買いに行くくらい、息をするのと同じくらい何でもないことだ。  苺のショートケーキと聞いて思い出した。晴がお約束通り寝坊をして、大慌てで新幹線に駆け込んだせいで買い損ねた山口土産の一口サイズのまんじゅうのことを。桜が喜んでくれると思っていたのに。  宗史は渋い表情を浮かべた。
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