序章

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序章

 深夜二時。落雷したかのような派手な音で、矢崎徹(やざきとおる)は飛び起きた。 「何? 今の……」  隣で眠っていた妻も同様で、体を硬直させ布団を胸に手繰り寄せたまま呆然と呟いた。 「地震、じゃなさそうだな」  矢崎は枕元のルームランプをつけながら、部屋をぐるりと見渡した。書棚の本も、妻の鏡台の化粧品類も、あれほど大きな音を立てる地震であれば転げ落ちてもおかしくない物は、いつも通り整然と並んだままだ。 「境内の方じゃ……」  妻が言いかけたところで、部屋の襖が開いた。思わず二人で身構える。 「お父さん、起きてる?」  不安げな声と一緒に顔を出したのは、高校生の一人娘だ。矢崎はほっと安堵の溜め息をつき、浴衣の合わせを整えた。 「お前たちはここにいなさい」  布団を抜け出し立ち上がったところで、今度は金属が転がる音が響いた。一つや二つではない。いくつもの金属がぶつかり合いながら転がる音だ。しかも、生木を裂くような音が混じっている。 「お父さん、警察呼んだ方がよくない? 境内の方だよね。絶対泥棒だよ」  妻と体を寄せ合っている娘が、震える声で言った。確かに、神社や寺に賽銭や神具、仏具、仏像を狙って盗みに入る者はいるが、それでもここまで派手な音を立てて盗みに入る者がいるだろうか。まるで盗んでいることを知らせているかのようだ。  矢崎はルームランプの側に置いていた携帯を手に取った。 「とりあえず見てくる」  妻と娘を残し、矢崎は部屋を出て勝手口へ向かった。  素足にサンダルをつっかけて、砂利道を玄関の方へ歩く。薄雲の隙間から照らす月の光。弱々しくはあるものの、周囲が見渡せないほどではない。  七月も半ばのこの時期、昼夜問わず気温はすっかり夏だ。蒸し暑い日が続いている。  周囲をぐるりと囲む鎮守の森のざわめきに交じる、鳴り止まない物音。矢崎は緊張から噴き出る額の汗を袖で拭った。まとわりつく蒸した空気と、どくどくと早鐘を打つ心臓が不快だ。  一歩進むごとに鮮明に響く音は、やはり本殿の方からだ。矢崎は足を止め、自分を落ち着かせるために深呼吸をする。  物音は止む気配がない。めぼしい物が見当たらないのか、それとも何か探し物をしているのか。 「……いや、まさかな」  ふと浮かんだ推測にかすかに苦笑いを浮かべる。もしかして、人間ではなく野生動物かもしれない。町から少し山に入ったこの場所ならおかしくない。実際これまでに何度か野生動物が迷い込み、追い払ったことがある。とは言え、熊だったら対処のしようがないのだが。  確認して警察かな、と若干和らいだ緊張感に頬が緩んだ時、足に何かが当たり視線を下ろした。 「……何だ、これは……」  呟いて、奇妙なものでも目にしたかのように眉根を寄せた。  へし折られたような木片と檜皮の塊が、そこここに転がっている。勢いよく顔を上げ本殿の屋根を仰ぎ見ると、映った光景に目を丸くした。屋根の一部が無残に破壊され、大きく口を開けている。先ほど聞いた落雷したような音は、屋根を破壊した音だったのだろう。  しかしどうやって。そんな疑問を抱き、矢崎は足早に本殿へ向かった。階段の前で一旦足を止め、ゆっくりと上る。世辞にも新しいとは言えない建物だ。一段上がるたびに鳴る軋んだ音に顔が歪んだ。  上まで上がり切ると、締め切った両開きの引き戸の前に立ち、できるだけ音を立てないようにそろそろと開け中を覗き込む。 と、突然、狙ったかのようなタイミングで木片が飛んできた。 「うわっ」  思わず声を上げながら腕を交差させて顔を庇い、その場にしゃがみ込んだ。木片が激しく引き戸を揺らして床に転がる。瞬時に、しまったと反射的に顔を上げた。  細く開いた戸の隙間から、ぽっかりと開いた天井から差し込む月の光が本殿の中央辺りに差し込み、周囲をうっすらと照らしているのが見える。床の木片に交じって真榊や神鏡、篝火や神饌が無残に散らばっている光景から、おそらく奥の祭壇は破壊されているのだろう。  その祭壇が設置されていた場所に、ぼんやりと人の姿が見えた。体格からして男だろう。背の高い男が佇んだまま、矢崎を見据えていた。 「ひっ」  まるで獣のような鈍い光を宿した赤い瞳に、矢崎は短い悲鳴を上げた。薄明かりで顔ははっきりと確認できない。しかし、人ではない――そう、本能が訴えた。  矢崎は静かに立ち上がり、一歩後退して素早く身を翻した。  とたん、後ろ襟を掴まれたと思ったら体が宙に浮いた。投げ飛ばされたのだと分かったのは、体中に激痛が走ってからだった。 「ぐ……っ」  わずかにしか開いていなかった引き戸の隙間から引っ張り込まれたせいで、後頭部と背中と肩を強打した。さらにそこから祭壇の残骸の中に放り投げられ、木片や鏡の破片が体中に刺さり、神饌を踏み潰した。唸り声を上げながら体を丸めて、痛みに耐える。  大の男一人を軽々と放り投げることが、人間にできるはずがない。やはり、人ではない。早く逃げなければと頭の片隅で分かっていても、わずかに動いただけで刺さった破片が食い込んで動けない。  ぎし、と床の軋みがゆっくりと近付いてくる。一歩一歩、何かを確かめるように進んだ後、矢崎の側でぴたりと止まった。  視線だけを動かして男を見やる。スニーカーにジーンズが確認でき、さらに上へ視線を上げると手の中の木箱が目に入った。 手のひらサイズのそれに、見覚えがあった。  数年前、代替わりする際に亡き父から一度だけ見せられたもので、門外不出だと、決して口外するなと厳命された。代々矢崎家は一子相伝でそれを伝え、守ってきたのだと説明を受けている。また、その理由も。 「お前、は、何故それを……」  矢崎は震える唇で途切れ途切れに尋ねながら、視線を男の顔に移した。逆光で、やはり顔は確認できない。 「何故、ここにいる……っ」  吐き出すように尋ねると、男が足で矢崎の体をごろんと転がした。激痛に、悲鳴すら上がらなかった。  男は痛みに苦悶の表情を浮かべる矢崎を見下ろしながら膝を折り、ゆらりと右腕を上げた。
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