第三章 寮

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第三章 寮

 全国的に夏休みに入った。世間は何やら浮かれた雰囲気に包まれている。  そんな中、重苦しい雰囲気に包まれているのは、上旬に起きた鬼代神社宮司殺人事件(略して鬼代事件)の捜査本部である。  現場百回とは、昔から言われる刑事の基本である。しかし、何度現場に赴いても出ないものは出ない。現場を重箱の隅を楊枝でつつくように探ろうが遺留品を調べようが、防犯カメラを目を皿のようにして見返そうが、もはや何も新しい情報は出なかった。  事件後すぐに浮かんだ土御門家当主、土御門明(つちみかどあきら)の聴取を、結局紺野は聞いたまま報告書に上げた。彼が語ってみせたおとぎ話も含め、だ。上司は苦虫を噛んだような顔をしたが、嘘偽りがない報告書を上げた紺野に何ら落ち度はない。おとぎ話のことは触れられないまま、彼のアリバイと被害者との関係、そして神棚の後ろにあったのは木箱だったらしいことだけが捜査会議で報告された。  鬼代神社の三人目の責任役員の件においても、特にこれと言った収穫はなかった。三人目の役員は鬼代神社の「ご近所さん」で、会社員勤めをする傍ら、曽祖父の頃からの役員を引き継いだらしい。事件当夜も就寝中でアリバイはない。だが、動機がないことと、自宅から鬼代神社までの経路の防犯カメラに姿が映っていないことが確認されたため、白と断定された。  それを最後に捜査はまったく進展を見せず、捜査員たちには日に日に疲れが見え始め、苛立ちを増していった。犯人の目星はおろか、手口すら解明できない警察に世間の目は厳しくなるばかりだ。  そんな中、紺野は一旦捜査本部に顔を出した後、すぐにある神社へ車を走らせていた。  京都市山科区、滋賀県との県境近くにある朝辻神社(あさつじじんじゃ)は、紺野の母方の祖母の実家である。ある時期から定期的に連絡を取っているが、最後に訪れたのは二年前だ。  朝辻神社は、住宅街の一角にある。朝辻神社と彫られた石柱が立つ出入り口から入るとすぐが駐車場になっている。五台分程の広さの駐車場の先に鳥居が立ち、参道が続いている。  紺野は参道を進み、奥の社務所へ向かった。近所の住民だろうか。犬を連れた年配の女性がゆっくりと境内を歩いている以外、人はいない。  ちょうど社務所から装束を着た六十がらみの男性が出てきた。 「(ゆたか)さん」  紺野が男性の名を呼ぶと、おや、と言って目をしばたいた。すぐに人懐こい柔らかな笑みを浮かべて紺野に歩み寄ったのは、朝辻神社宮司(あさつじじんじゃぐうじ)朝辻豊(あさつじゆたか)である。 「誠一くん。久しぶりだね」  二年前より確実に増えた白髪が、彼の心労を物語っていた。紺野はわずかに目を細めたが、すぐに笑みを浮かべた。 「ご無沙汰しています。お元気そうで」 「いやいや。この通り、すっかり年を取ったよ。誠一くんこそ、元気そうで良かった」 「お陰さまで、なんとか」  後ろに撫でつけた頭をさすりながらおどける朝辻に、紺野は苦笑いを浮かべた。 「今日は突然どうしたんだい?」  朝辻は一瞬間を開け、表情にふっと影を作った。 「何か、分かったかい?」 「……いえ……残念ながら、まだ何も」  朝辻は、そうか、と残念そうに呟いた。彼のことを聞かれるのは予想していたことだ。ここで一緒に落ち込んでいる場合ではない。紺野は気を取り直して話題を変えた。今日の本題はこっちだ。 「実は、今日はちょっとお聞きしたいことがあって来ました」 「聞きたいこと?」 「ええ。宮司なら、何か知ってるんじゃないかと思って」 「うん? あ、もしかして、あの事件を担当してるのかい? 鬼代神社の」 「はい」  紺野が頷くと、朝辻は困った表情を浮かべた。 「うちは、あの神社とは交流がないんだよ。だから役に立てないと思うんだけど……」 「いえ、聞きたいのは被害者のことじゃないんです」 「え? 違うの? じゃあ何?」 「陰陽師について、何かご存知ありませんか」 「え? 陰陽師?」  漠然と、だが率直に尋ねた紺野に、朝辻は虚をつかれた顔をした。  土御門明の言うことを信じたわけではない。だが、さすがにここまで何の証拠も証言も出ないとなれば、一旦常識を取っ払い、入手した全ての情報の裏を取るしかない。明は、おとぎ話は一切書物に残されておらず、秘匿され続けてきたと言っていたが、それは彼が把握している範囲内での話だ。  あの後、陰陽師について少し調べた。陰陽師は現在で言う公務員だったらしい。そして陰陽寮なるものが存在し、陰陽頭(おんようのかみ)を筆頭に、陰陽助(おんようのすけ)陰陽大属(おんようのたいぞく)陰陽少属(おんようのしょうぞく)などと官位が設けてあったそうだ。  組織として機能していたのならば、安倍晴明が鬼を封じる際に、命を受けた者、もしくは従者がいたはずだ。もしも彼らが密かに何かしらの文書、口伝を残していたとしたら、宮司ならどこかで小耳に挟んだことがあるかもしれないと思ったのだ。  京都に晴明に所縁のある神社は多い。だが、だからこそ直接尋ねても無駄だろう。それこそ土御門家の管理下にある可能性が大いにあるのだから。  他の神社に関しても同じだ。他言無用、門外不出と硬く口止めされていたら、いくら刑事とはいえ易々と喋ってはくれないだろう。そこで思いついたのが、祖母の実家である朝辻神社だ。ここで情報が得られるとは思っていない。だが、朝辻から陰陽師に所縁のある神社を紹介してもらえれば、身内という立場も手伝って、相手の警戒も少しは薄れるかもしれない。  事件解明に身内を利用するようで気が引けたが、そんなことを言っている場合ではないのだ。とにかく今は、わずかな手掛かりでもいい。喉から手が出るほど情報が欲しい。 「陰陽師って、また何でそんなことを? 事件と何か関係があるのかい?」 「すみません、捜査上のことなので」 「ああ、そうか。そうだよねぇ……陰陽師ねぇ……」  朝辻はしばらく唸りながら首を捻った後、思い出したように手を打った。 「ああ、陰陽師と言えば」 「何ですか!?」  食いつかんばかりに迫った紺野に、朝辻はぎょっと身を引いた。 「いやね、小学生の頃に祖父から聞いた話なんだけど、朝辻家は陰陽師の家系だって」  思考が止まった。何だって? 「一年前に宝物庫の掃除をしたんだ。ずいぶん昔の話だからすっかり忘れてたんだけど、その時にふと思い出してね。確か、文献が残ってるとか聞いて興味本位で探した覚えがあるんだよね」  文献、という単語で我に返った。 「あったんですか!?」 「確かね。でもねぇ……」  言い淀んだ朝辻に、嫌な予感がした。 「何ですか?」 「無かったんだよ」 「え? 盗まれたってことですか? 警察には? 防犯カメラはありますよね」  刑事として聞き捨てならない。つい詰問するような口調になった紺野に、朝辻はいやいやと手を目の前で振った。 「ちょうど夏祭りが始まる前で忙しい時だったから、見落としたのかもしれないと思ってそのままにしちゃって。すっかり忘れてたよ」  忘れっぽい人だ。呆れたように溜め息をついた紺野に、面目ない、と朝辻が頭を掻いた。 「内容は覚えてますか?」 「ああ、うろ覚えだけどね。誰かが現代語に訳してて、それを読んだんだ。でも子供の頃だから読めない漢字が多くてね。確か……」  朝辻は眉根を寄せながら腕を組んで、目を伏せた。 「安倍晴明の命とか、戦とか鬼とか……後は……女の子の名前があったような……」  女の子の名前、それはおそらく千代だ。そして安倍晴明、戦、鬼――まさか。 「封印……そう、鬼を封印した場所がどうとかって」  まるで妙案を思いついたような顔を上げた朝辻に、紺野は目を丸くした。  鬼代事件の犯人の目的が、神棚の後ろに隠されていた木箱だった可能性がある。それは紺野の報告により捜査本部でも確定事項だ。だがそこに木箱が隠されていたことは、土御門家当主以外の人間には知らされていない事実。文献すらない。  だが、もし朝辻の記憶が正しければ、明すら知らなかった文献が存在していたことになる。同時に、もっと複数の文献が存在する可能性と、犯人の情報源はこの朝辻神社である可能性が出てきた。  紺野は、いやちょっと待て、と顎に手を添えた。  もし朝辻神社が所有していた文献が犯人の情報源なら、犯人はどこから朝辻神社に文献があると知ったのだろう。土御門家当主でさえ知らなかったのに。  まさか、と紺野は新たに辿り着いた可能性に唖然とした。 「もし……」  ふと、朝辻が悲しげな声で言った。 「もしあの子を預かった時に思い出していれば、あの子も朱音(あかね)ちゃんも苦しまずにすんだかもしれない。僕は、それが悔しくてならないんだ。親族の誰も霊感なんかないから信じていなかったせいもあるけど、それでも、どうしてもっと早く、叔母さんからあの子の話を聞いた時に思い出さなかったのか……自分の不甲斐無さが情けなくてね……」  朝辻の叔母はつまり、紺野の祖母のことだ。そして朱音は、紺野の実の姉である。 「僕たちも、まだ諦めずに探してるんだよ。現職の刑事さんに言うのも何だけど、行方不明者捜索支援協会っていうところがあってね、そこでもネットを通じて情報提供をお願いしてるんだ。だから、誠一くんもどうかよろしく頼む」  深々と頭を下げる朝辻に、紺野は恐縮した。 「やめて下さい、豊さん。お願いするのはこっちです。ずっと迷惑をかけっぱなしで、本当に申し訳ないです」  紺野が肩を掴んで頭を上げるよう促すと、朝辻は今にも泣きそうな顔を浮かべていた。 「いや、いいんだよ。うちは子供に恵まれなかったから、あの子がうちに来た時は家内もとても喜んでいたんだ。実の子として、大切にしたつもりだったんだけどね」  何が良くなかったのかな、と朝辻は落胆したように小さく呟いた。  と、スラックスの尻ポケットに入れた携帯が振動した。見ると、北原の名が表示されている。 「すみません、戻らないと。貴重な話をありがとうございます」 「あ、うん。あんなことくらいしか分からなくて悪いね。こんなことを言うのもなんだけど、犯人、早く捕まえて欲しい。同じ宮司だから他人事に思えなくて」 「もちろんです。ありがとうございました。また連絡します」 「ああ。体に気を付けてね」 「はい。豊さんも」  軽く会釈をして、紺野は速足で駐車場に向かった。しつこく鳴り続ける携帯に出ると、開口一番、北原の切羽詰まった声で責められた。 「やっと繋がったぁ! どこにいるんですか紺野さん! 個人行動はやめて下さいよ! 怒られるの俺なんですからぁ!」  こちらは半泣きだ。耳元から携帯を離してうんざりした表情を浮かべ、紺野は溜め息をついた。 「悪かった悪かった。それより北原、お前今どこだ。捜査本部か」  それよりって何ですか、と苦言を呈し、北原はそうですけどと続けた。 「今、山科区にいる。四十分くらいで戻るから、すぐ出られるようにしとけ」 「は? 山科区って、何でそんなとこいるんです。どこに行くんですか?」 「説明は後でする。いいな、すぐだぞ」  ちょっと紺野さん! と向こう側で叫ぶ北原を無視し、紺野は通話を切って車に乗り込み、発車させた。  朝辻神社に文献があったことは、おそらく事実だ。朝辻が嘘をつくメリットがないし、かろうじて覚えていた内容も明の証言と一致する。  ただ、紛失していたというのが気になる。鑑識に調べさせても、掃除をしたと言っていたから指紋や足跡はもちろん、防犯カメラの映像もさすがに残っていないだろう。犯人が朝辻神社に文献が存在することをどうやって知ったのか、その方法が気になるところではあるが、彼が犯人だとしたら可能だ。となると、文献は二年前にはすでに盗まれていたことになる。本音を言うと考えたくないが、もし本当に彼が犯人だとしたら、 「絶対見つけ出してぶん殴る!」  紺野は悪態をついて、アクセルを踏み込んだ。
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