第二章 刀倉

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第二章 刀倉

 朝五時に起きて身支度を済ませ、柔軟、ランニング、腕立て、スクワットをこなし、次は竹刀での素振り。最後に祖父と試合形式で一戦終わらせる頃には、すっかり汗だくだ。シャワーを浴びて朝食を摂り、高校の制服に着替える。 『――では、次のニュースです。先日、滋賀県内の山中で、男女四人が意識不明で発見された事件についての続報です――』 「母さん、今日飯いらないから」  祖父に剣道を教わり始めてからの日課をこなした刀倉大河(とくらたいが)は、制服のネクタイを結びながら、台所で朝食の片付けをしている母親の背中に向かって言った。 「分かってるわよ。そのまま行くのよね」 「うん。帰り八時くらいになると思う。伊藤のおじさんにも頼んでるから」 「後でお母さんも電話入れとくわ。あんまりハメ外さないでよ」 「どうかなぁ」 「もうっ。外泊なんてやめてよ、伊藤のおじさんにも迷惑かかるんだから」 へらへらと笑いながら母の小言を聞き流し、大河は居間に入った。  祖父の影正が、湯呑みを片手にテレビを凝視している。滋賀県のニュースが終わり、先週京都で宮司が何者かに殺害された事件について、未だ犯人の目星さえつかないという内容を報じている。 「あー、これ、まだ犯人捕まってないんだ」  耳に入ってきたニュースに感想を漏らすと、影正は我に返ったように大河を見上げた。 「みたいだな。それより、学校は今日までだったな」 「うん。終業式終わって皆で遊びに行くから、帰り遅くなる」 「そうか。大河」 「うん?」 「お前、お守りちゃんと持ってるな?」 「持ってるよ。肌身離さず、だろ。じゃあ、行ってきます」 「おお、気をつけろよ」  ひらひらと後ろ手で答え、大河は通学用のリュックを掴んで玄関へ向かった。  スニーカーを履きながら、ふと首を傾げる。いつものじいさんと雰囲気が違った。どこか張りつめたというか、緊張していたというか、そんな雰囲気が伝わってきた。お守りのことだってそうだ。  大河はスラックスの後ろポケットに手を突っ込んだ。  まだ祖母が生きていた時だから、もう十年も前になる。ある事情から、何があっても肌身離さず持っていろ、と言って渡されたお守りだ。頻繁に持っていることを確認されていたが、中学を卒業する頃には聞かれなくなり、それはついさっきまで続いていた。それなのに、何故今日に限って聞いてきたのだろう。  お守りの感触を確かめてリュックを背負い、玄関を出た。脇に止めてある愛用のマウンテンバイクの鍵を外してまたがり、ゆっくりとペダルを踏み込む。 「まあ、いいか」  たまたま気になっただけだろう。独りごちて、家の前の道路を下る。  山口県防府市南部の瀬戸内海上に、向島(むこうしま)という島が浮かんでいる。防府市に属し、1950年に島と本土を結ぶ錦橋(にしきばし)が渡され、陸続きとなった。人口約1300人。底引き網漁業や段々畑でのみかん栽培が盛んな島で、かつては広葉樹林で覆われた森にホンドタヌキが生息する島として有名だったが、本土と陸続きとなったことで野犬が増え、その数は激減し地元民でも滅多に見かけることがないほどまでに減ってしまったという。  その向島の南側に浮かぶ、向小島(むこうこじま)と呼ばれるさらに小さな島が、大河が生まれ育った島だ。人口約三百人。向島と同じく防府市に属してはいるが、特にこれといって特徴はない。漁業と農業が盛んで、人口のほぼ半分が高齢者で占められている。田舎ではよくある話しだ。ただ、鉄道もバスも走っていない不便な環境で鍛えられたのか、高齢者のほとんどは現役で、本人たちもそれを自慢にしている。田畑を耕し、魚を釣り、出掛ける時は徒歩か車か自転車か、もしくはトラクターだ。  島のほとんどが手付かずの山に占められ、周りは海に囲まれている。集落は北側の沿岸部に集中しているが、大河の自宅はそこから自転車で十分ほど上った場所の、山の裾にある。大河たちが裏山と呼ぶその山と、一帯に広がる畑は刀倉家の所有地だ。通勤通学には不便だが、遊ぶには事欠かない。 「父さん! 行ってきます!」  しばらく坂道を下ると、早朝から畑に出ていた父親の姿を見つけた。父親は屈めていた腰を伸ばし、大きく手を振った。  大河は手を振り返し、そこから見下ろせる集落と、高く晴れ渡った空と海を見渡し一気に坂道を下った。  島内に学校がないため、通学時には向小島の漁港から向島の漁港まで船で渡り、小学生は向島小学校へ、中学、高校はそこからさらにバスを利用して本土へ渡る。非常に面倒な上にバスの時間を常に気にしなければならないため、免許が取得できる年齢になってからバイクの免許を取得するか、高校入学と同時に島を出て下宿か一人暮らしをする者が多い。大河は免許を選択した。 「おはよう、省吾」 「おー、おはよー」  自転車は、作業の邪魔にならないよう漁港の作業場の裏側に停める決まりになっている。いつもの位置に自転車を突っ込みながら、井原省吾(いはらしょうご)とあいさつを交わす。  省吾は、母親同士が仲が良く、何かといえば一緒にいた幼馴染みであり同級生であり、クラスメートでもある。一見、ハーフかと思わせる彫りの深い顔立ちは、同級生よりも確実に大人びて見える。 「今日さ、結局何人になったんだ?」  船着き場に向かいながら省吾が尋ねた。 「えーと、女子も何人かいるらしいから、十五人くらい?」 「……女子も誘ったのか」 「ほら、高倉が久本さんのこと狙ってんじゃん」 「あー、そっちが目的か」  面倒臭そうに顔をしかめた省吾に、大河は苦笑いを浮かべた。  省吾は女子からの支持がやたらと高い。顔立ちと落ち着いた口調のせいもあるだろうが、分け隔てない優しさが一番の原因だ。しかも無自覚だから質が悪い。中学の頃は、目立つ容姿とモテぶりに僻んだ上級生男子から目の敵にされ、苦労した経験がある。そのため、極力女子と係わりを持たないようにしているらしい。  170センチの身長にごく普通の容姿に成績と、全てにおいてぱっとしないせいでモテた経験がない大河からすれば、何とも羨ましい悩みだこの野郎、と思うが、苦労も知っているため大っぴらに羨めない。 「おじさん、おはようございます」  船の点検をしている男性に声をかけると、男性は満面の笑みを浮かべて振り向いた。いつも向島まで送り迎えをしてくれる「伊藤のおじさん」だ。 「おうっ! 二人とも今日も元気そうだな! 良いことだ!」  うんうん、と一人で納得しながら、バインダーの名簿に印を付けている。 送迎用の船は、何十年か前に全島民からの出資と市の補助金で購入された。定員は三十名で、片道五分の航海。午前六時から午後七時が運行時間だ。それ以外の時間は予約制になっている。皆、何かしら利用するため、整備費や修繕費は主に自治会費から捻出される。運転者は立候補者がほとんどで、数名でシフトを回している。立候補者は、会社を定年し暇を持て余している者、船や海が好きな者と様々だが、前者が多い。かく言う伊藤のおじさんもその一人だ。常に元気で気の良い世話好きな人だが、声がでかいのが玉に瑕だ。  出港の時間が迫り、顔見知りが次々と船に乗り込む中、慌ただしい足音が近づいて来た。この足音は、あいつらか。大河は音がする方へ顔を向け、盛大に溜め息をついた。 「間に合った! おはよー!」 「おは、おはよ……」  夏のセーラー服姿で息を切らしながら船に駆け込んできたのは、二歳年下の女子中学生二人だ。元気な方が椎名風子(しいなふうこ)で、息が切れ切れの方が佐久間(さくま)ヒナキだ。こちらも互いの母親同士が仲が良く、幼い頃から四人一緒に遊んでいる。 「おはよう。ヒナ、大丈夫か?」  省吾が心配そうに尋ねると、ヒナキは肩で息を整えながら無言で頷いた。大丈夫じゃなさそうだ。大河は溜め息交じりに風子に言った。 「風、またお前寝坊したんだろ。ヒナのこと考えてやれよ。お前みたいに体力馬鹿じゃないんだぞ」 「体力馬鹿って何よー! 失礼だな!」  言うや否や背中を中学校指定の補助鞄で殴られ、鈍い痛みが走る。 「痛って! おい、それ何が入ってんだよ! 妙に痛いんだけど!?」 「あーこれ? 友達に貸す漫画、十五冊!」 「十五……っ凶器だぞ!?」  背中をさすりながら訴えるが、風子はへらへらと笑いながら鞄を振り回す。漫画が十五冊も入っている鞄を軽々と振り回すとは、相変わらずの馬鹿力だ。 「ったく。もうちょっと落ち着けよ、あいつは」 「お前が余計なこと言うからだろ。てか、お前が言うかそれ」  ぶつぶつぼやいていると、ヒナキの世話が終わった省吾が苦笑いを浮かべながら隣に立った。同時にエンジン音が響く。 「俺以上に落ち着きがないって言ってんの」  大河も大概落ち着きがないとは言われるが、風子はそのさらに上を行く。顎のラインで切り揃えた黒髪は長年変わらず、気の強そうな目に日に焼けた肌は、いかにもお転婆といった風体だ。好奇心が強く負けず嫌い。隠し事が嫌いで、はっきりとした性格だ。反対にヒナキは大人しい性格で、怒ったところを見たことがない。色素の薄い長い髪をおさげに結び、優しげな垂れ目が特徴だ。読書と絵を描くのが趣味で、全国中学生絵画コンクールにも入賞した実績がある。  言い捨てるように一言返してやると省吾は肩を震わせ、すぐに話題を変えた。昨夜のテレビ、面白い動画サイト、好きなバンドの新譜、そして、明日からの夏休みの計画。  他愛のない話しをしながら、大河は風に逆らうように顔を上げた。  じりじりと肌を焼く太陽の強い日差しは、生まれつき茶色がかった大河の髪をさらに薄く照らす。少し湿った夏の海風は潮の香りが混じり、高く晴れた空でゆったりと流れる雲は真っ白だ。青々と葉を茂らせた山の緑は、空の青にとてもよく映えている。聞き慣れた船のエンジン音に、跳ねる水の音、楽しげな笑い声――大河が、島を出ることなくバイクの免許取得を選んだ理由の一つが、これだ。  不便で、刺激も娯楽も少ない。けれど、自然に囲まれたこの島は居心地が良い。
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