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 夏の終わり。夜になると少し肌寒くなってくる頃。私は半袖半ズボンだった。季節の移り変わりの速さを見誤ったと思った。私は物思いに耽けるために昔住んでいたアパートに来ていた。その頃から数えると既に十数年が経っていた。なので、もちろん鍵は持っていない。したがって、部屋に入ることは出来ない。というか、入ったら不法侵入にあたるのでそもそもやらない。アパートに入ることが出来ないため、私は、しばらくアパートを見上げていた。白に少しだけ黄色を足したような色をしたアパートの外壁。昔と少しも変わらない。そう思いながら昔のことを少し思い出した。懐かしい。その後、じっとしていても寒いだけなので、アパートの周りにある花壇を見ながら歩き始めた。紫の花、黄色の花、多肉植物、固い木の実が成っている少し背の高い植物。どれも昔のままだ。そしてどれも名前がわからない。これも昔のままだ。そう思いながらまた昔のことを少し思い出した。懐かしい。アパートを一周した私は、再びアパートを見上げていた。少し身体が温まった。すると、男の子とその母親らしき人物が目の端から歩いてくるのが見えた。男の子は明るい声で母親に今日あったことを喋っているように見える。母親も笑顔で相槌を打っているように見える。遠くからなのではっきりとは見えないしはっきりとは聞こえない。ただ、はっきりと分かるのは男の子は半袖半ズボンを着ていて、母親はスーツを着ていて、左手には買い物袋とカバン、右手には男の子の手があった。男の子の右手には、、、これははっきり見えない。とにかく、とても楽しそうだ。きっと仕事帰りに保育園かどこかに迎えに行ったのだろう。そんなことを思った。また、懐かしいと思った。しかし、ふと我に返る。夜にアパートを見上げて突っ立っている男が怪しまれないはずがないと思い、二人がいる方とは逆方向へ早歩きを始めた。そして遠くから二人がアパートに入るのを後ろに振り返って細目で見届けた。「あれが昔の俺か。」と独り言を呟いた。ほんの少しの間ぼうっとしていると、今度はサラリーマン風の男がアパートに向かって歩いていた。そこで私はあの男の後ろについて行けば中に入れることを思いつき、小走りで、しかし怪しまれないように近づいた。部屋の前まで行けばより多くのことが思い出せるかもしれないと思いながら、男の少し後ろについて歩いた。ぎりぎり怪しまれない距離感を保った。しかし、男は私の存在に気づいてこちらを一瞥した。だが、一瞥するにとどまった。特に怪しまれているという様子ではなかった。そして男はカバンから鍵を取り出してドアを開けてアパートに入っていった。私は閉まる直前のドアノブに飛びついた。危なかったが、侵入に成功した。身体が火照って寒さなど感じなかった。半袖半ズボンで正解だったな、などと思いながら胸をなでおろし三階に向かおうと階段に足をかけた瞬間。後ろから「こんばんは。」と声を掛けられた。母親だった。一応不法侵入者でもあるので人には会いたくなかった。しかしここで慌てたら怪しまれることは間違いないので、「こんばんは。」と平静を装って言った。そしてすぐにその場を立ち去ろうとした。しかし、「あのー、」とまた声をかけられた。さらに続けて、「どこかでお会いしたことはありませんか。」と尋ねられた。さらに平静を装って、「お、おそらく人違いだと思います。僕はぁ友達の家に遊びに来ただけなんでーぇ、へへ。」明らかに平静ではない。視点が定まらず目を泳がせていると男の子と目が合った。すごく真剣に、だが不思議そうに私を見ていた。男の子が右手に持っていたのはススキだった。私はその純粋すぎる眼をこれ以上見ていられなかったので、「し、失礼します。」と言いすぐさまその場をあとにした。このアパートには二つの出入口がある。一つは正面玄関だ。この玄関はアパートにしては珍しいエントランスに繋がっている。もう一つは裏口だ。そして部屋は6号室まであり5階建てで、1号室と6号室の前に階段がある。私が親子とばったり会ってしまったのは6号室の前の階段である。時間的に合わないだろうと思っていたが、おそらくエントランスで何かやっていたのだろう。そして私は失礼しますと言ったあともう一つの階段の方へ逃げたのだ。私が三階へ登ろうとしている頃には親子の姿は既に無かった。私は2度目の安堵感を味わいながら305号室へ向かった。そして私は305号室の前で立った。しばらくたっていたが、ふと階段の方に足を運び、身を乗り出して空を見上げた。ああ、そうか、「今日は満月だったのか。」しかし、すぐに飽きてしまい視線を下げた。昔ほど感動しないのだ。なんだか寂しい気持ちになった私は最上階に登り、それから屋上に上がって、フェンスを越えて向こう側に立った。そして少し景色を展望した。さっきまで心臓バクバクで忘れていたが今はもう夏の終わりだということを思い出した。夜風が腕と足をすり抜けていく。「寒っ。」早く戻ろうか、暑い夜に。私はなんの躊躇いもなく右足を空中に放り出した。同時に左のポケットからスイッチを取りだして押した。屋上から落下していた私の体は一瞬にして消え去った。そしてやはり消える直前に見た満月に対しても特に何も思わなかった。
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