40人が本棚に入れています
本棚に追加
1.ネカマ、はじめました
「お前、ネカマだろ」
その箱に投げ込まれたメッセージを見たとき、僕は一瞬だけ呼吸を止めて、それから横隔膜を震わせて一気に息を吐き出した。
天井に向かって、笑いが止まらなくなってしまう。
そうだ、いかにも。
僕はネカマだ。
よく知ってんじゃねえか、お前。
緑色の枠に囲われたシンプルなメッセージを見つめる。このメッセージが誰から送られてきたものなのか。
それだけは誰にも、分からないのだ。
送って来た当人以外の、そう、誰にも。
* * *
ネットに咲いた徒花にSNSというのがあって、その中にはツイッターという巨大なネズミ講じみた網がたわんでいて、そのまた中には、質問箱という箱があるんだ。
まあだいたい一般的なオフラインを満喫している人間は、ネットとツイッターまでは知っていて、質問箱というものは見たことも聞いたこともないだろう。
僕だってこんなもの、つい最近知った。
というか僕はそもそもにして、ツイッターとか言う金のかからないネズミ講に登録したのが今月に入ってからだ。知っているわけがない。
ツイッター、意味はそうだな「おしゃべりさん」? 皓々と光るインターネットの海の中、まるでぷかぷか泳ぐ泡みたいに、有象無象の人間たちが日夜、言葉を吐き散らかしている。
僕はいわゆるデジタルネイティブ世代だと思うんだけど、高校に入るまで個人所有のデバイスを与えてもらえなかったから(辛うじて、連絡ツールとして携帯電話は買って貰えた)、まわりの奴らに比べたらこういうものには滅茶苦茶、弱い。
高校受験は浪人できない、というのが母親の口癖で、父親の方はネットに触るとバカになる、が信条だった。
その二人の強力タッグの元で育った僕は、実に健全にバカ正直に毎日せこせこ勉強して、大学まで直通エスカレーターのついてる名門高校に見事、入学を果たした。
それがすでに二年以上前で、今年は三年生。そしてそういうわけだから、僕には受験勉強という枷がないんだ。
持てあます膨大な夏時間を前にして、僕にはやることがなかった。
今までの人生、夏休みと言ったらそれはもう勉強に追われて(僕は小学生の時から中学の受験勉強を課せられていた。なお、その試験は失敗し、母親の望む私立中学へは進学できなかった)いたわけだけど、この高校に入れてからは夏休みは無為という言葉のために存在していた。
退屈していたんだ、僕は。
高校で友達なんて出来なかった。
友達の作り方を習得する代わりに、これでもかとばかりにたくさんの知識を詰め込まれていたし、そのことを母親も父親も一度も危惧しなかった。
僕もそれでいいと思っていた。
人生に友情なんて、必要か?
友情って金になるか?
積み上げてきた知識だの、この偏差値や学歴というヤツは、いずれ絶対に金になるぞ。
僕はそう信じている。
来年には誰もが感嘆するような名門大学に入学して、四年後には必ず、バンカーか起業家になって成功するんだ。
そういうときに、足を引っ張ってきたり、金を無心してきやがる他人なんて、邪魔なだけだと思うんだけど。
母親にも父親にも、友達というものがいるかどうか分からない。少なくとも僕は今まで、一人も会ったことはないが。
友達がいなくて困ることなんて、こうして夏休みを迎えた時に、何をすればいいか本気で迷ってしまうくらいのものだ。
夏の色した空の下、蝉の初鳴きが聞こえていた。
警報じみた蝉の声に被せて、同じ校章の入ったシャツを着たバカが調子の狂った声で叫んだ。
「うっそ、マジ、ぱねえじゃん! あいつ、フォロワー千人超えてんのっ?」
「マジらしいよ。神だよあいつ、神すぎる。大人のひととか、フォロワーだって言ってた」
「マジかよ……! 女のひととか、いるのかなあ、それ」
「そりゃ、いるだろ。千人もいて全員男とか、逆に怖くね?」
「たしかに……っ!」
水色の澄んだ空に吸い込まれるように、二つ分の下卑た笑い声が空回って響くひびく響きわたる。
うるせえな。
僕は今たぶん、世界で一番どうでもいい会話を聞いてしまった。
シャワシャワ鳴る蝉よりずっと無意味で、くだらない。
だいたい神は百五十年くらい前にとっくに死んでいるんだぞ。
フォロワー千人くらいで神なんて言ったら、世界は役立たずの神で埋め尽くされるよ。
溜息つくのももったいなくて、僕はどんよりした目でバカの汗で濡れた背中を見送った。
あいつら何部だったっけ。
いやそもそも僕はあいつらの、名前すらろくに覚えちゃいない。
フォロワー千人がそんなに偉いか。
もう一度それを考えて、ぱっと唐突に閃いた。
そうだ今年の夏の研究は、ツイッターでのフォロワー獲得にでもしようって。
最初のコメントを投稿しよう!