白い男とピンクの女と黒いカラス

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「ねえ、ビールないの?」  食卓椅子に着くなり、母・洋子は無遠慮にタバコを吹かし始めた。 「ありません。この家には、私と娘しか暮らしていませんから。それと、灰皿もありませんから」  渚が手を洗う様子を監督しながら、背を向けたまま真帆は捲し立てる。おどけた顔で首をすくめた洋子は、反抗することなくポケットから取り出した携帯灰皿に吸い殻を納めた。  二十五年前。父は海辺に、家族三人がやっと肩寄せ合い暮らせるほどの小さな平屋を建てた。真帆が五歳になったばかりの初夏のことだった。  この家で母と暮らした年月は、十年。  夫と十五を迎えたばかりの娘を未練なく捨て置き出ていった冷徹な人だと分かってはいたけれど。日々を過ごした思い出の場所に再び足を踏み入れておいて、この人は何の感慨も()かないのだろうか。  少し老いた洋子の横顔をチラリと見やったタイミングで、もう一人の招かれざる客の声が浴室の方角から響く。 「これ……ちょーっと、短すぎじゃないっすかね~」  海中散歩で濡れネズミになった男は、白いスーツを脱いだ代わりに男物の浴衣を身につけ、脱衣場から現れた。それは、奇跡的に残っていた父の遺品だった。 「贅沢を言わないでください。男物の衣類があっただけ、ありがたく思ってください」  とは言ってみたものの、真帆は吹き出しそうになるのを必死で耐える。手首と足首が(あらわ)になったサイズの合わない浴衣姿は、昔見た頬に渦巻き模様が描かれたアニメの主人公を彷彿させた。 「あ、でも、着心地はいいっす。(いて)っ!」  亡き父より頭一つ背の高い男は、低い鴨居をくぐり損ね、おでこを(したた)かにぶつけた。 「イデッ!」  鴨居に跳ね返される動作が滑稽だったのか、渚も面白がって真似ていた。  本名かどうかも疑わしい『ジョージ』という名前以外、身元も何も分からないワカメの亡霊みたいな髪型のヤサ男。得体の知れない彼を、還暦間近の母の婚約者だと紹介され、どうして受け入れられようか。
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