第三連鎖 「線路ハ続クヨドコマデモ」

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第三連鎖 「線路ハ続クヨドコマデモ」

それはユラユラと、まるで重さが無い様に移動していった。 …ゆらり、…ゆらり。 レースのカーテンの向こうに、確かに人影みたいなものが見えた。 生徒からネガと呼ばれている彼女じゃなくても、怯えてしまうだろう。 ネガティブ思考じゃなくても、怖いものは怖い。 「これだから独りは…。」 彼女は、かつて家族と一緒に住んでいた団地で一人暮らし。 公営団地の為に家賃が周囲と比較しても、かなり安い。 何より彼女の勤務先の学校が、団地の敷地内の公園と隣接している。 徒歩で通勤なんて時間的にも理想的。 昼食の為に自宅で自炊出来るのは、金銭的にも楽なのだ。 それ以上に受け付けられなかったのが、父親の移転先。 現在の駅から快速電車で一駅だけなのだが、それでも嫌だった。 混雑と痴漢で有名な路線。 小さくて華奢な彼女にとって、満員電車での通勤は地獄である。 彼女は見ず知らずの人間が大の苦手であった。 彼女が、まだまだ幼かった頃の出来事。 祖父の通夜に家族で実家に戻った時の話。 一番年下の彼女は祖母と一緒に寝る事となった。 祖母は暗くなったら寝てしまう様になっていたのだ。 そこで幼い彼女と一緒に床に就いたのである。 その時に彼女は祖母に尋ねた。 「もう、おじいちゃんにはあえないの?」 とても悲しい質問だったけれど、彼女の一番の疑問だったのだ。 祖母は優しく答えてくれた。 「そんな事はないよ、もう一人のお爺さんが昨夜も会いに来てくれたよ。」 …もう一人の、おじいちゃん? 意外な言葉が返されて、彼女は更に尋ねた。 「なんて、いっていたの?」 祖母は柔らかい笑顔になっていた。 目尻が少し光っていたが、とても素敵な笑顔だった。 「…アリガトウ、って言ってくれたんだよ。」 少し時間を置いてから、祖母は話を続ける。 更に意外な言葉で、その話は始まった。 「チビちゃんは、幽霊が苦手かい?」 小さかった彼女は、女子高を卒業するまでチビと呼ばれ続けた。 それは親族の間でも共通していた。 現在のネガよりは、遥かに可愛らしい呼ばれ方ではある。 「うん、こわいからだいきらい。」 幼い少女からの、当然の答えである。 その答えに満足して祖母は質問を続けた。 「じゃあ、お爺さんの幽霊は怖いかい?」 もう一人って幽霊の事か…。 少女はキッパリと答えた。 「おじいちゃんなら、こわくなんかないよ。」 祖母の微笑みが大きくなった。 次の言葉は、少女の深層心理に刻まれ続ける事となる。 「そうでしょう、…怖いのは幽霊じゃなくて知らない人なのよ。」 ネガにとって通勤電車は地獄そのものに思えた。 そこで、誰もいなくなった元の実家で一人暮らし。 勤務先の学校も両親の住居も近いし、最良の選択だと自負していた。 …普段なら。 台風が近付いている予報を見る度に、両親の家に行こうか悩む。 だが台風なら普段よりも混んでいるのは予想出来る。 高架線の部分の途中で徐行運転にならないとも限らない。 そんな地獄に、わざわざ入っていくのは嫌だ。 テレビで天気予報を見ながら、そんな事を考えていた時の事。 可愛らしいレースのカーテンの向こうに気配を感じた。 確かに人が歩いている様な気配がする。 …ゆらり、…ゆらり。 これが休日の昼間だったりすれば、思い切りカーテンを開けるだろう。 ベランダの少し下にスペースが在る。 1階に入っているテナントの屋根代わりになっているのだ。 そこに団地内の公園から飛んだボールなどが乗っかる。 それを取りに少年が街路樹を伝って登ってきたりもする。 …昼間なら。 台風が近付いている夜に、わざわざ登っていく人はいない。 いない筈だ。 だとすれば先程の人影は誰だろう、…何の為に? 女性目線で考え付いたのが、覗き目的かも知れないという事。 ネガと呼ばれる彼女に相応しい発想であった。 彼女は鍵をロックして、カーテンを引き直した。 軽く寝返りを打った時に、ピクは少しだけ目が覚めてしまった。 何かの気配を感じた様な気もしていた。 ルームライトも点けずにボンヤリと窓の外を見た。 サッシの為に音は聞こえないが風は強そうである。 少し窓が軋んでいる。 「あれぇ…?」 部屋の暗闇の中、また夏休みの課題の絵を眺めてしまう。 クラスメイトの集合写真を基にして描かれたイラスト。 その内の二人の瞳の部分が紅く見える。 そして今や三人目の片目も薄紅くなっていた。 薄暗くて、その輪郭や特徴も見にくい。 だが描かれている位置から、作者の彼には誰だか判った。 イジメられている少年とは真逆の位置。 校長先生の隣にいるのは担任の女性教師である。 小さくて華奢な新人の担任。 彼は密かに彼女の写真も飾りたかった。 「ネガもかよぉ…。」 彼は印刷に使ったプリンターのインクのせいかも、と思った。 何かに反応して、全員の瞳が紅くなっても面白い。 …何かに反応して、…何かに。 能天気な彼は、再び眠りに呼ばれていった。 呼んだのが夢魔だったのなら、まだ良かったのだが。 呼び名通りに彼女はネガティブ思考が止まらなくなっていた。 彼女は好きで教師の職を志したのだが、生徒が好きな訳ではない。 その事に教師になってから気付いてしまった。 余り人間が好きではなかったのだ。 ネガのクラスでもイジメは存在していた。 だが彼女は知らない振りを通していた。 知っていると認めてしまえば何らかの処置が必要になる。 知らなければ一年でクラス替えになってしまう。 彼等もバラバラになるし、問題も解体されるだろう。 …知らなければ良いのだ。 全てが上手くいく筈だし、時間が問題を有耶無耶にしてくれる。 彼女は自分の華奢なキャラクターを存分に活かしていた。 そして全ての問題から、巧く逃げていたのである。 イジメの中心の生徒の両親が実力者なのも災いしている。 彼女は特にPTA副会長の彼の母親が苦手であった。 太っている年配の女性の圧力が怖かったのである。 彼女は嫌っているのと同時に軽蔑もしている。 当然の様に、その息子である生徒も大嫌いであった。 両親に似て、太っていて大きい。 子分の生徒達にボスなんて呼ばせているのも嫌だった。 彼がいなくなればイジメも無くなるだろうに。 いなくなってさえ、くれれば…。 じきに彼女の願いは聞き届けられて、叶う事にはなるのだが。 テレビ画面の中の、各地の台風の映像に釘付けになっていた。 と同時に、窓の外の強風にも気を配っている。 どちらも彼女に恐怖しかもたらさなかった。 その時である。 …どしゃん。 窓の直ぐ外で大きな衝撃音が聴こえたのだ。 気のせいか少し建物が揺れた気もした。 …と同時に窓ガラスに何かが当たった音が響いた。 彼女はネガティブ思考を全開にして跳び上がってしまった。 その恐怖で足がもつれた。 身体全体が恐怖で強張ってしまっていた。 きっと台風で何かが倒れ、何かが飛んできて窓に当たったに違いない。 少しして恐怖も治まり、彼女は落ち着いてきた。 ガラスは大丈夫だろうか? もし、こんな状況下で割れていたら一大事である。 風で割れたガラスが飛んできて、身体に刺さったら大変だ。 だが大変なものが刺さるのは、心の方であった。 そしてそれは、致命傷となる。 彼女は窓が心配でカーテンを開けた、…開けてしまったのだ。 残念な事に窓ガラスにはヒビが入っていた。 まるで蜘蛛の巣に見える模様が、彼女を捕らえた様に映していた。 落胆と恐怖が一度に彼女を襲ってくる。 一体全体、何が飛んできてガラスを割ったのだ? ガラスの無傷な部分から、ネガはベランダを覗いてみた。 そこに落ちていたのは、…スマートフォン? 最近発売されたばかりの最新機種であった。 強風に飛ばされたスマホが窓を壊したの? こんな台風が近付いてくる夜に? 自分の呼び名以上にネガティブな状況に彼女は泣きそうだった。 彼女は無事な方の窓を開けてベランダに出た。 その途端、入れ替わりに風と夜が部屋に流れ込んだ。 飛ばされない様にサンダルを片付けていたので、裸足である。 彼女はスマホを拾って握った。 明日にでも交番に届ければいいだろう。 …その時である。 「痛っ!」 裸足の彼女が踏んでしまったのは、飛び散ったガラスの小さな破片。 その瞬間にスマホを放り出してしまった。 落とされた衝撃で電源が入ったのか、画面が明るくなった。 彼女は再び拾う時に、その画面に映った写真を見た。 …見てしまったのだ。 それは彼女の受け持ちクラスの生徒に見えた。 別のクラスメイトの名前を額に刻んで血だらけである。 そして…首だけの様に見えた。 …これは何、どういう事なの? 涙が溢れ出てきた、でも悲しいのではなく怖かった。 震えも涙も自覚出来ていない彼女には、よく判らなくなっていたのだ。 何が何だか…。 とにかく、その写真をその見続ける事は本能的に不可能だった。 小さい悲鳴を上げながらスマホをベランダから投げ捨てようとした。 …その時である。 ネガは、その持ち主を見付けてしまったのだ。 正確には、かつて持ち主であった亡骸を。 それは自分自身の血の海の中で、彼女の方を見つめている。 彼女の大嫌いな教え子であった。 最上階に住んでいた彼は、彼女に会うために降りてきたのか。 真紅の眼で、彼女の方を見つめ続けている。 彼と目を合わせてしまった彼女はユニットバスへ駆け込んだ。 だが嘔吐にも失禁にも間に合わなかった。 涙も震えも止まらなくなっている。 もう台風どころではなくなっていた。 此処から逃げ出さないと、もう彼女の心は限界であった。 新しいスウェットとレインコートだけ羽織って外に出る。 泣きながら、両親の顔だけを思い浮かべていた。 リュックを背負って駐輪場から自転車を出した。 この荒天の中、三駅先まで漕いで行くつもりでいる。 台風によって電車が止まりそうな予感しかしないから。 両親に会いたい一心でサドルを跨いだ。 団地の敷地内から出る時に、ベンチに座る男の人を見掛けた。 彼も嗚咽を繰り返して泣いる様である。 高校の上級生か、大学生か。 泣きたいのは自分の方だと彼女は思った。 既に涙を流している事には気付いていない。 向かい風はドンドン酷くなってきていた。 それでも、あの地獄にいるよりはマシである。 …ボスは滑って落ちてしまったのだろう。 …あの首は合成写真に決まっている。 両親の家に着いたら警察に電話すればいい。 ガラスの修理も管理人に連絡しよう。 全てが終わる迄、ノンビリ休んでいればいい。 私のキャパをオーバーしてるのだから仕方が無いじゃないか。 風に雨が混ざり始めていた、急に視界が悪くなってきた…。 ライトの中を雨が降りていくのが微かに見える。 この雨が涙を目立たなくしてくれるだろう。 電車だと環状線だけれど、自転車なら最短距離を直進出来る。 予想より早く着けそうだ。 …その時である。 ライトのギリギリ先端に、人影がボンヤリと浮かんだ。 自転車から離れてはいるが、正面だった為にネガは急停車した。 灯りの中に浮かんだのは、あの見覚えの在る生徒。 やっぱり首の写真は合成だったんだわ…。 彼女は急速に安心していった、放心状態に近い。 そして立ち止まっている彼の表情を見た。 少年は彼女を直視していた、だが視線が合わない。 少年は嗤っていた、その瞳から紅い涙が流れ出てきた。 「…え?」 後から後から、血の涙を流し続けていた。 そして彼は何かを喋っていた、彼女に向かって。 だが大きな音が邪魔をしていて聴き取れない。 …カンカンカンカン、…カンカンカンカン。 「…モウ、逃ゲラレナイヨ。」 視界を遮ってきた何かの向こう側で、彼の唇が呟いた。 血の涙を流しながら、彼は嗤った。 嗤い続けていた。 「…え、…え?」 彼女は同時に反対側を振り返った。 何かが視界を遮る向こう側で、血だらけのボスが嗤っていた。 …カンカンカンカン、…カンカンカンカン。 その大きな音の輪郭がハッキリしてきた。 「…遮断機?  アナタ達、外に出て…!」 言い終わらない内に、急カーブを快速電車が入ってくる。 遮断機の中、線路の上に立ち止まっていたのは彼女の方であった。 彼女が嫌っていた快速電車も、彼女の事を見ていない。 電車と彼女とが、同時に悲鳴を上げ続けて衝突した。 踏切の中の彼女は自転車ごと遠くに連れ去られていってしまった。 …彼女は逃げられなかったのだ。 急ブレーキを掛けた快速電車のライトが踏切を照らし出す。 そこには誰もいなかった。 ネガの予想通り快速電車は緊急停止してしまった。 もう明日の午前中ぐらい迄は不通なのではないだろうか? だけど、その電車に乗らなかった事は彼女に取って正解ではなかった。 どちらにしても、彼女は二度と両親に会えなくなった。 その現実からは逃げられない。
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