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…雨の日は嫌いだ。特に、この時期は湿気で髪が整いにくくなるから、殊更嫌いだ。見上げてみても空は淀んで、星はおろか月の光まで地上には一片も射さない。
弱々しい雨の音と、街往く靴の音。外界から響くそれらを隔てる、私の好きな音だけを発信するヘッドホン。
それに意識を傾けながら、漂う湿気で曇った眼鏡越しに、影法師のような行き交う人影を流し目で見ていた。
普段はコンタクトだけれど、オフの日は別だ。この私はあの小さな空間の連中は誰も知らない。いつもの顔は、無理矢理張り付けたぺらぺらのお面だ。
…交差点に差し掛かり、私は人の波と一緒に立ち止まる。少々歩き疲れて、息を吸って、吐く。
……息苦しい。
外気が原因ではない。ましてや車の排気ガスでもない。常に頭をもたげている命題が、時折私を前後不覚に追いやる。
肺を震わせて、酸素を取り込んでいる筈なのに、常に窒息しそうになる。どうして皆平気なのか。私だけがおかしいのか。
いっそ、この濁った空よりも遠い、宇宙にみんなを放り込めば、私と同じ気持ちになるのか。
そんな益体のない妄想が、虚しく脳内を通り過ぎていく。沈み込む面持ちを慰めるように、ただでさえ少ない肺の空気を溜め息で浪費する。
レンズ越しの視界は、私の心持ちを代弁するかのように白い靄がかかる。自分の息で曇った眼鏡を拭こうと、軒先に立ち寄る。
──確保された視界に、最初飛び込んできたのは。頭の天辺から爪先まで満遍なく濡れた人物だった。
私はただ空を悠然と眺める、華奢な男性とも美しい女性とも取れるその御姿に、自然と視線が集められていた。
…知っている。この、空を仰ぐ人物─望月螢を。
「…なにやってンの?」
尋ねずにはいられなかった。もう殆ど止んでいたにしても、ピーク時は雨粒が目で見える程に雨雲の勢いはあった。
だというのに、この少年は。彼はこちらに気が付くと、不敵な笑みを浮かべ向き直る。
「…街の往来だぞ。一市民が突っ立ってて悪いか」
「びしょ濡れじゃない。なんで」
「雨の下に居たからな。濡れるに決まってる」
何を言っているんだこいつは、という疑問が真っ先に出てくる。
「…バカじゃないの。普通傘くらい差しなさいよ」
「たまには雨の日に傘を差さず居たっていいだろう」
「でも…」
「その程度も『普通』は許されないのか?」
「…ッ」
その問いに、私は言葉を詰まらせてしまう。ふと私の目線は、近場の水溜まりに落ちていた。
その水溜まりに、長靴の子供が飛び込んでいた。幼い頃、私もやった記憶がある。今からでは、到底考えられないけれど。
…そう。高校生にもなって、そんなこと『普通』はやらない。誰が言い出した訳でもない『普通』は、私の手足をきつく縛り付けていた。
「…ようやく晴れてきたな」
そう言って、彼は空を指差す。釣られて今度は目線が上向きになる。
「…綺麗」
雨上がりで澄んだ空に、少しだけ欠けた月が、それはもう、きらきらと、輝いていた。特別なものではない筈なのに、私はその明かりから目を離せなかった。
月の明かりを見ていて、細い指から傘が滑り落ちていたことに気が付かない程に、私は注視していた。
子供の頃、見つける度に同じことを声高に叫んでいたことを思い出す。あの頃の私には、今のような息苦しさとは無縁だった。
そして今、ほんの瞬き程度の間。私の胸の遣えのようなモノが取れたような感覚がした。
「……はっクション!」
……原因を究明しようとしたその思考は、隣から放たれたバカでかいくしゃみで、突風に吹かれた如く彼方へ飛んでいった。
「…ちょっと来て」
溜め息をひとつして、私は望月螢の腕を強引に引っ張っていく。レンズ越しの視界は、月明かりでおぼろげに照らされていた。
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