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「どういうつもりだ?」
「何が?」
疑問に対して、淡々とした声で訊き返す。質問に質問で返すのは悪いが、問い掛ける側の心持ちが汲めていないのだから仕方ない。
「いきなり家に引っ張ってきて、どうしたんだ?」
「別に何も。ただの気まぐれよ」
そう言いながら家の奥からタオルを持ってきて、びしょ濡れの輩に投げ渡す。
「…両親はって、訊かないのね?」
「言いたくなければいい」
「…そうね。そんな義理もないし」
ひとまずは、といったふうに水滴をタオルに吸わせると、望月螢はやはり怪訝な雰囲気を崩さずに尋ねる。
「…結局、何が目的なんだ?」
「…あんたは雨の日捨て猫拾わないタイプなの?」
「人を猫と同列に扱うな」
「じゃ精々風邪でも引いてなさいよ。学校休めるし万々歳でしょ?」
皮肉をぶつければ、それこそ猫のように毛を逆立てるような、不機嫌と警戒を露にする。いちいち構うのも億劫なので、決断を迫る。
「風呂はあっちよ。とっとと暖まるか、帰るか決めなさい」
「……」
腑に落ちない様子ながら、望月螢は玄関のマットで足を拭いてから、律儀にフローリングを汚さないよう風呂場へ向かった。
しばらく経つと、シャワーの水音が聞こえてくる。私はリビングを抜けて部屋に入ると、にわかに埃っぽい箪笥を開けて、適当に服を脱衣所に持っていく。その際、元の服は乾燥機にかけておくのも忘れない。
…実のところ、一番風呂は私が入る予定で沸かしていたのだ。それをわざわざ譲ってやるほど、望月螢にそこまでの義理はない。
これは、単純に私の勝手。相手の事情とか、学校でのポジションとか、そういう込み入った話とは一切関係ない、ただのお節介。
リビングに戻ると、ベランダと部屋を隔てる窓から見える雲はいくばくか消え去って、そこに隠れていた光が露になっていた。
「…満月」
「厳密にはあと一日でな」
背後からの声に、つい肩を跳ね上げる。自ら招き入れたとはいえ、異性が同じ屋根の下に居るのだ。いくらなんでも無防備に過ぎた、と反省する。
「いいのか。服まで借りて」
「いいの。どうせ虫に食われるのを待つだけだから」
そう言いながら、彼は身につけたTシャツと短パンにどこか落ち着かないようであった。
「気に入らないなら全裸で帰れば?」
「…いちいち刺があるな」
「生憎、私は虫なのよ。刺すのはお手のものよ」
…最も、私は蜂みたいに上等な針は持っていないが。甘い汁を啜るストローが精々のナマクラだ。
「…働き蜂って風には見えないけどな」
…そんな私の皮肉を知ってか知らずか、望月螢は濡れた髪をタオルで拭き取りながら、そんなことを零す。
それが、どうにも引っ掛かって仕方ない。気がつくと彼の方へ顔を向けて、追及のために口を開いていた。
「…急に何よ」
「単に、今の姿が教室に居るよりも安らかに見えてな」
…超能力か、と錯覚するように言い当ててくるこの少年に対し、私の胸中に渦巻くものは、不気味さよりも苛立ちが勝る。
「自宅なのよ、リラックスしてて悪い?」
「そうじゃない。なんというか、俺には普段の生きづらさが感じられないように見える」
「……生きづらいって?」
……心の中の、厳重に鍵の掛けられた扉が、無遠慮に踏み込まれたような感覚だった。兎に角、不愉快極まりない。
今すぐ彼を殴り倒したくなる手を抑えながら、吐き捨てるように、精一杯の侮蔑を込めて反撃を試みる。
「…気持ち悪い。私のコト、そんな風に観察してたの?」
「観察してる訳じゃない。言いたいことがあるのに黙ってる、って空気がするんだよ」
…空気って何よ。これが偶然なのか、或いはわざとなのか。胸を掻き乱す苛々とは別に興味が沸いてきた。
「…さっき、働き蜂っぽくないって言ったわよね。じゃあ、私はなんだって言うの?」
そうだな、と指に顎を添えて、望月螢は考え込む。幾つか思い当たるワードを呟きながら、これは違うという試行錯誤を暫し繰り返していた。
私はというと、その答えが出てくるのをどこか恐れて、月明かりの差す窓のほうへ向き直る。
「……蜉蝣、いや蛾?」
「──っ」
──扉に、亀裂が走る。聞きたくない、と耳を塞ごうという気持ちが先走るが、それよりも先に言葉は紡がれてしまう。
「蛍光灯にワラワラ集まってる、蝶の中に紛れた毒蛾。蛾なのに、蝶と同じように振る舞う…そんなイメージだ」
──瞬間。私は望月螢の頬を思い切り殴っていた。生まれて初めて、考えるより先に、怒りのまま拳を振るった気がする。
こちらの胸の奥の、痛い所にピンポイントで杭を打ち立ててくる。それに耐えかねた、突発的で短慮な行動。
腰の入った拳をもろに受けた望月螢の頬は赤く腫れ、鼻血も出ていた。それと同じように、私の手の甲もじんじんと痛んでいた。
彼の瞳に映る、窓に映る私の顔は、まるで地獄の鬼のような、とても醜いものに見えてならない。
誰だって、図星を突かれては心穏やかでいられない。私も相当頭に血が昇っていた。反射的に人を殴るなんて初めてだ。
「…ごめんなさい」
言葉だけ、形だけの、空っぽの謝罪をする。反撃されるかな、と警戒するが、望月螢は別段怒った素振りもなかった。
「…気にするな」
鼻を押さえながら放った一言。それきり、その場に座して外の風景を眺めていた。
…突然女がぶん殴ってきたのだ。文句は勿論、乱暴も甘んじて受けるべきだろう、と少しでも考えた自分が阿保に思えてならない。
私は雲に隠れようとする月を眺める。その姿が、様々な感情でぐちゃぐちゃになって、兎に角誰の目にも映りたがらないように見えた。
そんな自分勝手極まる投影をしながら、ただひたすら、一秒でも早く乾燥機の回転が終わることを祈っていた。
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